小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

映画『ふたつの故郷を生きる』を観る

2019年03月20日 | 日記

今年初めて行く、地元の月一原発映画祭。今回は、中川あゆみ監督のドキュメント映画「ふたつの故郷を生きる」であった。

福1原発事故から8年目を迎えた今、自主的に避難した人々は新たな困難に直面する。区域外避難者への補償・家賃補助等は、この3月末までに完全に打ち切られるとのこと。子どもを連れて県外に避難した家族はこれから、さらに経済的、精神的にいっそうの困窮を極めることになるだろう。将来を悲観して、自死をえらんだ女性もいたという松本さんの報告には胸が痛んだ。

映画「ふたつの故郷を生きる」のメインは、夫が福島に残り、東京の練馬に母娘で生活する一家を定点観測するかのようにカメラを据えたドキュメンタリーだ。
一見平和そうにみえる生活も、家族が分断されていることの悲哀が静かに伝わってくる。娘たちへの気遣いからか、土日も仕事しているにも関わらず疲れを見せず、明るい笑顔で気丈にふるまう母親。娘たちも知ってか知らずか、健気にもその仮の住まいを居場所として受け入れている。
 
父親との僅かなひと時の再会と別離、娘たちの放射線被害が気がかりな病院での検査シーンなど、母娘をとりまく不安のタネは尽きない。フクシマの様々な問題が、未だに終息しないのは何故なんだと、観る方は、行き場のない怒りを憶えざるをえない。
 
ところで、今回の映画は、「月一原発映画祭」という名で開催されるものとして第65回を数えるという。筆者は、そのすべてを観てはいないし、せいぜい10本ぐらいのものだ。しかし、初期の『フタバから遠く離れて』や『遺言 原発さえなければ』、『いのち』などの作品は印象深く、記憶に残っている。いずれも福島の人々の悲惨な体験、苦しい極限の生活を目の当りにするような強度を持つ、優れた出来栄えの映画だった。

今回、映画に登場した家族たちを、これまでのドキュメント映画に登場した方々と比較すると、それはまだ恵まれた、幸福で穏やかなものに思える。
だが、そうした視方、感じ方は、不幸の序列や悲しみの階層をつくることになる。それこそが、どうしようない偏見・差別をうむ元凶ともいえ、自戒して斥けなければならない。彼らは当事者として、同じように悲嘆と苦しみを味わい、将来への底知れない不安に苛まれている。

理不尽な思いで避難を強いられた思い・・。それが自主的なものだったとしても、やむなき万感の思いで故郷を離れたのは、みな同じであろう。
(ただ、残念なことに、当事者間でそうした悲しみのランクみたいな、被害と不幸度のランク査定をする、心ない方たちがいることも確かなのだ)

地元の月一原発映画祭を運営する「谷中の家」には、30人ほどが入るスペースしかないが、福島から避難した方、その支援者、千葉県で支援活動する方、そしてフクシマに何らかの関わりをもち、それぞれ独自の活動を続けている地元谷中の人々・・。そうした方々の声や意見に、ただただ耳を傾けたい。個人的な小さなつながりと、僅かなカンパでしか支援してこなかった筆者のような傍観者は、罪悪感はないものの、後ろめたい気持ちがないといえば嘘になる。

そうした思いがあるからこそ、月に1回でもフクシマ関連の映画を、地元で拝見できることはこの上ない悦びといえる。いつまでも映画祭を継続して欲しいし、見る映画がなくなれば、それはそれでフクシマの問題の終息ともいえるのか・・。

映画の後、中川監督のトーク、自主避難者でもある松本徳子(のりこ)さんの報告があった。その後の、懇談会にも久しぶりに参加。中川監督の仕事に関心をもっているという、某国営テレビ局のプロデューサーも観客として来ていた。
また、前回用事があって観ることができなかった、トルコの原発をテーマにした『沈黙しない人々』の監督森山拓也氏も、当日参加していたことが分り、話ができなかったのはとても残念だ。

次回は、「浪江町からの報告」として『新地町の漁師たち』の映画監督山田徹さんの映像・スライド&トークショーがあるとのこと。

▲マイクをもつ郡山市から避難している松本さん、「避難の協同センター」の世話人でもある。左は、監督の中川あゆみさん。数多くのドキュメンタリー作品を手がける。海外での受賞もある。


▲地元で早くも咲いた天王寺のオカメ桜。春らしさを、最後に添えたく思う。


追記:記事アップした後、3月20日午前零時の深夜、偶然にも衆議院予算委員会の質疑応答が放映されていた。どこぞの代議員が「政府の圧力があるでしょ!」と、繰りかえして吠えている。それを物語るエビデンスを示すのでもなく、自身の印象・考えを感情的に言っているに過ぎなかった。応答するNHKの会長は、もちろんのこと紋切型の返答を繰りかえすしかない。現実を見据え、最善の対処法で努力する、云々。
政府が直截に圧力を加えるわけがない。もっと巧妙で強かだ。たとえば、電話、ファックス、手紙、ネット上のメール等で、あくまで個人としての放送内容の批判・反対意見が寄せられる。でも、それらは明らかに組織的と思われる同一のフォーマットで書かれている。であっても、しかるべき手続きとして、公共放送への貴重な意見、感想として尊重され、今後の番組づくりに反映されなければならないのだ。
それらが総じて、東電や政府にとって都合の悪い、あまり知られたくない内容のものなら猶更のことだ。民主主義に基づく実質的な総意として、NHK上層部は受けとめなければならない。そして、それは制作現場の末端に至るまで、フクシマの「真実」を報道することのプレッシャーになる。制作するに当っても、バイアスがかかることになるし、創作意欲そのものも減退するだろう・・。
そんなふうに当日、参加した某P氏はうつむくように話してくれた。
 

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