小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ことばの情報密度を考える

2019年12月04日 | エッセイ・コラム

1,2週間ほど前だったか、新聞に「ことばの情報密度、その世界比較」という記事があった。びっくりしたのは、日本語がダントツで情報密度が低く、余分なことばや文脈に関係のないあいづちが多いということだった。

その記事によると、世界でいちばん情報密度の濃い言語はベトナム語だそうな。これを100とすれば、2位が中国語で94、3位が英語で91という結果。次に、ドイツ語79、フランス語74、イタリヤ72、スペイン63となっている。

日本語はというと、情報密度は49しかない。これを喜んでいいのか、嘆くべきなのか・・。で、調べたのだが、毎秒の発話音節数とのこと。情報量との関係らしい。具体的な調査方法はわからない。要するに、日本語は多義的で曖昧さに満ちている。

例えば「けなげ」という語を和英辞典で引くと、admirable, diligent, hardworking などの単語が出てくる。「けなげ」にはそもそも、弱小性、逆境性、忍耐性、勤勉性のニュアンスがあり、一つの英単語に簡単には置き換えられない、と識者はいう。

思うに、日本語には「しどろもどろ」とか「ふつつかもの」など独特な言葉遣いがある。これを翻訳するとなれば、けっこう難しいだろう。正確に、良心的に翻訳するとなれば、相当な情報量・密度をもって、さらに最適な言語を吟味し選ばなければならない。

さらにいえば、日本語という言語は、歴史的な変遷をふくめて、「感情・情緒性」がたっぷり内包されていることは確かだ。数学者の岡潔が提唱した、「懐かしさ」という情操を大切にせよ、という主張にもつながるような気がする。

「懐かしさ」を英語でいえば端的に「nostalgia」(※)だが、「なつかしさ」ということばで私たち日本人が喚起される言語イメージは豊富だ。次々とことばが浮かんでくるし、モノやイメージが脳裏にどんどん甦る。幼児期に体験した原風景だけにとどまらないし、異空間でも、「なつかしさ」は甦る。

田植えなぞしたことないが、ベトナムでその風景をみたときに何故か、強烈に「なつかしい」感慨をおぼえた。もっと卑近な例を書けば、どこか旅に出て、近くの寺の鐘がごーんと鳴っているのを聴くと、懐かしい感情につつまれる。

前述した「ことばの情報密度」からいえば、その基準は「知」であるということだ。「利」に聡く、合理性を重んじることでもあるか。しかるに中国人やアングロサクソンは、やはり「知」を優先する民族なのであろう。

日本人は、その「知」の尺度をはかる「情報」という言葉にさえ、「情」という文字を採用したのだから凄い、いや感心する。岡潔が言ったように、やはり「情緒・情操」を大切にする国民でありたい。

しかし最近では、グローバリズムが浸透したのか知らんが、「ことばのやりとり」では、合理的に、論理的に、あるいは簡略にというのがもてはやされている。感情表現をともなう意思伝達は、若い人たちから敬遠されている気がする。単純に面倒くさいだけなのか・・。

極端な例かもしれないが、若者ことばに「ムズイ」がある。最初、ほんとにいやな感じのことばだと思った。しばらくして「難しい」を省略したことばだと理解でき、納得できたけど・・。6音のところを3音で発音するのだから、ある意味で情報密度が濃くなったのである。「知」の方へ傾いたと言えるのか。

これからの日本を支えるのは「知」や「利」に聡い方たちだ。情緒たっぷりな老人は引き下がって、黙って見守っていよう。

(※)「nostalgia」の他に、動詞ではlong 形容詞ではdear、 beloved、 dearingなどがある。「懐かしい故郷」ならディア・オールド・ホームとなるが、言葉のもつ喚起力はどうだろうか?

▲こんなイベントも、日本人に豊かな情緒性があるからこそ賑わうのだと感じてしまう。


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