小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

日々のこと、ハーンのこと。

2019年11月29日 | エッセイ・コラム

まず、日々のこと。ようやく寒さを感じる日が多くなった。そんななか、道すがら咲いている花を発見。名前は? クレマティスに似ているが・・。

先日、文京区主催のイベントに「和綴じ本教室」があったので参加した。「化粧裁ち」や「角ぎれ貼り」などを施した正式の作り方を学んだ。これで好きな俳人の句を編纂した自作のアンソロジー句集を(いつか)編んでみたい。

   

 

 ▲まだぎこちないが、「角ぎれ貼り」を習う。する、しないでは出来具合に雲泥の差がでる。

ブログを書くことがままならない。ネタはあるのだが、書く動機の決定的な何かが足りない。己の趣味・嗜好を書いて、誰が悦ぶであろうか。日々の移ろいと、雑事を書いて公にすることの意味はあるのか。などと、思い悩む日々を過ごしている。

かつて、詩人吉岡実は、老いて自らの詩魂が枯れてきたとき、こう感慨した。「想像力は死んだ、創造せよ」と。S.ベケットの言葉を言いかえて、もって銘としていた。それに肖って、想像力などなきに等しい我が身なれど、微力ながらなにかを創造したい気持ちは失いたくない。とはいえ、さも高尚なことをブログに書いているかといえばさにあらず。今となれば赤面、冷や汗ものの記事もあれば、浅学菲才をさらけ出した後悔しきりの記事もある。

お陰様というか、記事をアップしなくても毎日300人以上の方が訪問されているようで、それは過去に遡って検索する記事があるからだ、と都合よく勝手に解釈している。ま、ブログを書くことの発奮の元にもなるし、それはもう有難いことでもある。

さて、以前書いた「マルチニーク島、ハーンとゴーギャン」という3年前の記事が結構な方々に読まれていたことが、最近のアクセス解析でわかった⇒https://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/68fe2a1d75638bbdb6ec256921798cd6

二人がカリブ海の仏領マルチニーク島のサンピエールという港町で、偶然にも近くで暮らしていたことを書いたものだが、何かの本を読んで追加したい小泉八雲のトリヴィアがあり、そのままにしていた。

で、拙ブログの記事がまだ読まれていることが分かり、「追記」ではなく、ここに改めて記事を立てることにした。(なお、ゴーギャンがマルチニーク島で書いた絵が国立西洋美術館にあるらしい。常設展示であったら見たはずだが、自分の意図しないこと、利害に関わらないことは直ぐに忘れてしまう。このことを「呆け」という。)

日本に来た頃の写真。アメリカ時代のものはない。(?)  米に移住したのは19歳、1869年(慶應3年!)だ。生年は、筆者とちょうど100年の開き。

書き残したいことは、ハーンの最初の妻のことである。1875年、ハーンが25歳のとき、当時オハイオ州のシンシナティで生活していて、下宿の料理人アリシア・フォリー(マティ)と結婚したことが知られている。ものの本によると、クレオールという白人と黒人の混血の女性だったらしいが、写真などは未見だし、あるかどうかも判然としない。アメリカでの記者時代におけるハーンの研究については、様々な研究論文など参考資料も多い。だが、この新婚生活について詳細に論じたものは、まだ読んだことがない。

実際には、結婚は2年で解消したので、詳細が不明であるのは当然だろうが・・。ハーンはその直後、ルイジアナ州のニューオリンズに移り、敏腕の新聞記者として10年間ほども安定した生活を過ごした(ジャーナリストというよりエッセイストに近い)。また、この間には、仏文学・露文学の翻訳やら、独自のクレオール(混血)文化の研究にいそしんでいる。その後、そうした充実した生活を捨てて、カリブ海にあるフランス領マルチニーク島へ行く決心をするのである。

 

オハイオ州にいたハーンが、下宿の料理人であるクレオールの女性と結婚した事実、小生はそれに強い興味を抱く。なぜなら、当時の州法では異人種間婚姻は違法とされていたし、混血であっても肌が有色ならば、結婚はオハイオの土地柄では禁忌であった。そのことを知ってか知らずか、ハーンはあえてマティと式を挙げ親にも報告している。その結果、法外なことをした理由で、新聞社・エンクワイアラー社を解雇され、シンシナティ・コマーシャル社に移ることになったのだ。

高瀬彰典氏による『小泉八雲論考』があり、それは、ハーンの心性、マザコンなどの心理分析を含めた研究であるらしい(未読)。ハーンは自分の人生の悲劇はすべて父親に原因があると思い込み、生涯母親を理想化し、その浅黒い肌や茶色い瞳を好んでいた。このような心情は、弟のジェイムズにあてた手紙にも表されているという。また、大阪大学の舞さつき氏による『ラフカディオ・ハーンにおける混血人種表象』では、以下の内容が紹介されていた。(以上、大学の紀要論文?)

「ルイ=ソロ・マノレテイネノレの『マノレティニークにおけるハーン評価の変遷』は、ハーンの混血賛美は黒人軽視と表裏一体であるという。また、『アンティーユ諸島(カリブ)文学事典』を著したボノレドー大学教授のジャック・ コノレザのハーンへの批判を紹介している(マルテイネノレ 109)。ハーンを「悪質な人種差別主義者」、「エロチックな思考の強いエキゾチスム愛好家」と非難しているなど、幾人かの批評家たちからも、ハーンは辛棟な批判を浴びせられてきた。」(追記:こういう批判の視点があるという研究の事実を留意する為に記述した。他意はない)12.2

この外国人研究者らの論考は、あまりにも植民地主義時代の背景を考慮しない批判であり、ハーンの出自や特色ある人格形成を無視したものだ。オハイオ州はいま、ラストベルトといわれる白人至上主義が根強い州であるが、そもそも多くのネイティブ・アメリカンのいわゆるインディアンの種族が多く暮らしていた地域だった。一方、黒人たちは、南北戦争後でも奴隷のように、白人のもとで働かされていた。

人種差別主義が浸透していたオハイオでは、当時、インディアンと呼ばれる先住民族はすべて、居留地へ強制的に移転させられていたという。そうした地域特性があるにもかかわらず、1875年ハーンは、25歳の時に有色人種(クレオール)と結婚したのだ。このことの意味は重いし、アラブ系の血が混じっていたらしいギリシャ人の母を神格化していた感のあるハーンの心性を考え併せて、その後日本に赴き小泉セツとの結婚を振り返ってみたいのである。

また、考えることが増えた。

 ▲松江の士族小泉湊の娘・小泉セツと結婚

 ▲長男誕生を機に、日本に帰化した。

 八雲が誕生して120年になる2016年に小泉八雲記念館がリニューアル・オープンしたという。館長は、小泉八雲の曾孫小泉凡さん。HPも充実していて、本記事を書くにあたり大いに参考させていただく。また、企画展も八雲ファン垂涎のものが盛り込まれているようだ。現在は「ハーンを慕った二人のアメリカ人」が開催されている。ハーン文学の最大の理解者であるエリザベス・ビスランドと、ハーンの愛読者で彼の日本理解をもとに戦後日本の象徴天皇制の実現に力を尽くしたボナー・フェラーズを特集している。

 

 



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