小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「オタクサ」という紫陽花

2018年06月08日 | エッセイ・コラム

この回は、前回の続き。 

江戸時代の文政7年(1824年)出島ではなく長崎の郊外に、医師にして博物学者のドイツ人、フランツ・フォン・シーボルトは、私塾「鳴滝塾」を発足させた(もちろん、幕府公認)。

西洋医学や自然科学など幅広い分野の「西洋の知」を教示し、ここに学んだのは高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など50人以上に及ぶ。日本史で習った記憶のある方も多いかとおもう。
シーボルトはドイツ人であるが、ドイツ語訛りを話すオランダ人として入国した。彼の真の目的は何だったのか、日本の植物を採集することが最終目標だったのか・・。

彼は当初、出島の商館医として来日したが、滞在一年にして「日本博物誌」を書きあげ、私塾を開校した。塾長としての講義だけでなく、植物はじめ日本固有の事物を精力的に採集した。多くの塾生たちも、これに加わったことが知られている。

1828(文政11)年、国禁の地図を海外に持出したことが発覚した。

たぶん伊能忠敬らが作成した、あの正確無比な日本地図であろう。各地の港などの重要な場所、つまり日本を攻略するうえで必須の詳細な地形、要所を知ることができる一級の地図だ。

地図を持ち出したこの「シーボルト事件」により、幕府は彼を国外追放処分とした。死罪にならなかったのが不思議なくらいの重罪であったとされる。

 

シーボルトは日本にいる間、長崎丸山の遊女楠本滝(通称お滝さん)を日本人妻とした。彼は自分の両親に結婚したよろこびを手紙に書いている。その後、イネという娘も生まれた。

(吉村昭の長編小説に『ふぉん・しいふぉるとの娘』がある。シーボルトの娘イネが蘭学と医療をまなび、幕末の動乱期にたくましく女医になる姿を描いた。なんとストーリーのあらかたを忘却。鳴滝塾の高野長英をとりあげた『長英逃亡』は傑作である)

シーボルトは広範な知識をもつ医者であり博物学者だ。日本を追放されてから、植物学者のツッカリニとの共著『日本植物誌』(Flora Japonica)を著した。その105頁から106頁に美しいアジサイの挿絵があり、その学名を「Hydrangea Otaksa Sieb. et Zucc.」と命名した。(※注1)

▲シーボルトの自筆とされる。なぜ「おたくさ」なのか「お滝さん」からなのか・・。

後年、日本の植物学者牧野富太郎(1862-1957)は、シーボルトがその学名にotaksa を命名したことを知り、アジサイが日本で「オタクサ」と呼ばれていると理解した。しかし、牧野は日本国内でこの呼称が確認できなかったことから、シーボルトの愛妾の楠本滝(お滝さん)の名を潜ませたのでは、と推測したのである。(※注2)

この牧野の認識は、人口に膾炙していろんな文献で紹介されている。また、「オタクサ」の名はシーボルトとお滝さんのロマンスをイメージさせることから、文人作家の創作意欲を刺激し、詩歌にこの名を詠み込むことが一時流行ったという。

 

▲手まりの形状にちかい紫陽花かな。ご近所の鉢植え、見ごたえがある色合い。

 

 さて、シーボルトの挿絵を見ていただければ一目瞭然であるが、日本原産とされるガク紫陽花ではない。手毬状の、西洋アジサイに似た丸い形状である。

『日本植物誌』に載せるならガク紫陽花こそがふさわしく、それにotaksa 「オタクサ」という和名を命名してほしかったのだが・・。

では日本には、手毬状の丸い紫陽花はなかったかというとそうではなく、古くからシーボルトの挿絵にあるような紫陽花も存在していたのである。

花手まりのごとくむらがり咲くなり。そのまま用ゆれば花重くして止まらず

室町時代にはいり華道の世界に「花手まり」のアジサイの図が示されている。『生花実躰はしめくさ』という生け花を指南する古い文献は、少なくともシーボルトが日本に滞在していた以前のもの。この書はまた、ガクアジサイのことを「あじさいに似てあじさいよりは上品なり」と、紫陽花がおおきく2種あることを示唆している。

 

一般的な額紫陽花(ガクアジサイ)。日本原産であるが、かつては房総半島、三浦半島、伊豆半島だけに自生していた。そのときは「浜アジサイ」と呼ばれていたらしい。シーボルトは江戸にも来たことがあるが、このアジサイを見たことはなかったのかもしれない。だから、日本植物誌』には、ガクアジサイを紹介できなかったと推測できる。


{蛇足}シーボルトは、お滝さんを生涯愛したとされるが、日本を追放されてドイツに帰国後再婚し、3男2女をもうけた。日本が開国して、シーボルトは再来日するが、その際に、12歳の長男アレクサンダーを連れてきた。シーボルトは3年後に帰国したが、長男は独り残って英国公使館の特別通訳となったそうである。その後、次男も来日し、日本女性と結婚したとの情報もある。(以前、NHKのBSでオランダ・ライデンのシーボルト博物館が紹介されたとき、シーボルトの玄孫がでたような・・。イネは結婚したはずだが・・子どもは産んだのか。忘却の彼方だ)

長男アレクサンダーは、腹違いの姉、女医となったイネとの邂逅をはたしたのであろうか・・。吉村の「ふぉん・しいふぉるとの娘」には書かれていなかった気がするが・・。ネットにはこれに関する記事、諸説、アレクサンダーの写真など、これでもかというくらい氾濫している。



(※注1)アジサイ属 14 種を新種記載している。その中で花序全体が装飾花になる園芸品種のアジサイを Hydrangea otaksa Siebold et Zuccarini と命名している。しかしこれはすでにカール・ツンベルクによって記載されていた H. macrophylla (Thunberg) Seringe var. macrophylla のシノニム(同一種)とみなされ、シーボルトのものは植物学上有効名ではないとされる。(wikiより) ⇒つまり、ガクアジサイであったら有効か。

(※注2)シーボルトは愛妾の楠本滝(お滝さん)の名を学名に潜ませた。美しい花に花柳界の女性の名をつけたとして牧野富太郎はシ-ボルトを強く非難したらしい。但し、新種の笹の命名に、自らの妻の名「スエコザサ」と名付けた。本妻ならよくて、花柳界の愛人は駄目だという理由は、牧野がやはり明治の男だからであろう。

 

 

 

 


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