今日、妻が録画したTV番組のなかに、自閉症の子供が往来で意味不明の叫び声を発しているときにどうしたらいいかというのがあって、私は逡巡し「何もできない、ただ見つめるだろう」と言った。
なぜ迷ったかといえば、おせっかいという自分の性格があり、で、気になったらなんか行動にうつす、あるいはなにかしら話かける自分を想像したからだ。
というのは、ご近所にそういう青年がいて時折「うわっ、うわっ」と奇声を発しながら走っていくのを目にしている、そういう身近な経験でもあるからだ。
青年といっても、もう三十歳はこえているだろう。彼の十代のときの、頬のまだ赤いような年頃から見ているし、彼がそのころから不思議にも私を見つめることがよくあった。
それは気のせいかもしれない。しかし、わたしはそれ以前より「ぼくはきみとはなしがしたいんだ光線」を無意識におくっていたとおもう。
ところで、私は彼の家庭環境をまったく知らない。が、偶然にも彼がどこに住んでいて、家族がどんな生業を営んでいるか知っている。
散歩していたときに、彼が自分の家に入ったところに遭遇した。そのとき彼は奇声を発しながらわたしの脇をすりぬけ門戸を占めた。門と玄関の小空間に居つくまって、門扉の板のすきまから沈黙しつつ視線を私にむけていた。
これは幻想ではなく、私の実感である。そして妻にそのはなしをし、一連の私的経験を納得してもらったのだった。
私は彼と何らかのコミュニケーションをとりたいが、それはいいことかわるいことか・・。
妻の回答は、「知らんぷりをすること、それも見守る感じがいい」ということだった。承知はしたが自閉症の子供とはなしがしてみたいという願望があったので、今日の録画を見て「ただ見つめるだろう」と言った私は、自分がそのことを覚えていたことを誇らしく思った。
他人様からみたらどうしょうもないことを、たらたらと書いてしまった。老人の繰り言である。
この歳になっても執着するというか、手離せないものが練れてくる気がする。
たとえば、好きだったフランスの詩。その一部分を転用して、今日一日の終わりにしよう。
見られず 知られず
生き生きと また 消え消えに
風の もたらす
われは 薫。
見られず 知られず
偶然か はた 精霊か
来しと見るまに
読まれず 解かれず
明智の人にも 屢屢
犯さるる 誤謬。
(P.ヴァレリー 「風の精」)
※最近の気になった花の写真を添えよう。ショウジョウバカマ
ヒトノイッショウモ、ハナノイッショウモ、カワリナイカナ。
この事は、私も同じです。
ただ、違うのは、私の場合、気になったら既に行動してしまっている もう一人の私がいる... 、というところ。
私も( たぶん )同じ青年を知っています。しかも、その青年が子供の頃の記憶もあります。
その青年が小学校 高学年だと思える時、とある店で店員に「 良かったね~! そのお菓子を買ってもらえて... 。」などと、まるで幼児に話しかけるように、そう言われていました。すると、奇声をあげながら会心の笑みを浮かべていたので私も「 良かった! 良かった! 」と 一緒に喜んだ事を この記事を拝読して思い出しました。
障害児を持つ親の辛さ、大変さ、苦労などは並大抵では無いと思いますが、( 親は、)世間から『 特別視 』されるのも、よりいっそう切ない思いをするかもしれない... 。普通の子供と同じように ごく自然に接したい! と思ったのです。