小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

世代間の価値観

2017年11月17日 | 社会・経済

 

 

竹下節子さんのブログでは2日にわたって、フランスのベビーブーマーと日本の団塊世代の違い、あるいは世代間の価値観や意識の差異などについて論じられていた。その発端は、或るネットサイトに「36歳が境界線『乾いている世代』と『乾けない世代』」という尾原和啓氏のインタビュー記事に触発されて書かれたものだった。

「36歳を境に大きな断絶があることに・・」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53377

「団塊」「バブル」などと呼ばれた上の世代は、戦後の焼け野原の何もないところから、何かを生み出すことに達成感を感じて仕事をしてきた世代です

尾原和啓氏については、『モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体書』や『ITビジネスの原理』等の著書がある気鋭の経済評論家とのことだが、世情に疎くなった私はまったくその存在を知らなかった。

かつて私も世代間の価値観について集中して考えことがあって、関心を持って読まさせていただいた。広告の仕事をしていたとき、消費者としての世代別に調査、分析した価値観、行動パターンなどの成果はいつも頭の片隅においていた。いまふり返れば日本が輝いていたバブルの時代であり、ある意味で私自身が私らしさを失っていた時代でもあったのだ。実際のところ広告コピーを書くよりも、消費動向分析を踏まえた尤もらしいマーケティング連動の広告企画、商品開発に携わった方がギャランティが良かったこともある。

細かいことは省くが、その道の専門家と組んでいろいろな仕事をし、消費者の価値観の調査・分析のノウハウを教わった。それから後の、自分の仕事の幅が広くなったことは確かだ。(現在はそうした調査・分析は廃れていて、ビッグデータからのAIによる様々な分析が主流であろう)

まず、人々はどんな価値観をもち、それがどのような行動基準に結びつくのか・・。それを形成する、大きな3つのファクターを想定する。それが常道の手はじめ。

経済的価値観:損か得か 

道徳的価値観:善か悪か

感性的価値観:好きか嫌いか

以上の3つを中心に、機能的か合理的かの行動因子を混合させて消費者の動向を分析するのである。アンケートや対面インタビューで調査するが、そうした価値観を真正面から問いかけるわけではない。その人の価値観が浮彫になるように、設問や文面に精緻な工夫が必要となる。それでも、その人の価値観や行動原理を把握するには大雑把な方法であり、簡単に分析はできないとタカをくくっていた。が、結果は大かた真っ当なところに落ち着くのだから不思議である。もちろん絶対的なものではなく、あくまでも参考にすべき分析データということだ。

同世代でも、男と女では決定的に違う。男女における普遍的な差といえば、概して男は道徳的価値に重きをおき、女は感性的価値を重視する傾向がある。

バブルがピークであった80年代の大きな特長を書く。世代別にそれぞれ特徴がはっきりしていたが、詳しくは覚えていないので悪しからず。(また、現在ではまったく意味をなさない)

戦中派の私の親の世代(現在の私たちの年齢層)は「好きか、嫌いか」という感性的価値を行動の基準におく人は少なかった。損得も一考されるが「善いか、悪いか」の道徳的価値観を重視する傾向がみられた。一方、私たちより下の世代、そのころ「新人類」と呼ばれた若い世代は、圧倒的に「好きか、嫌いか」を行動原理とする傾向がみられた。

▲この光景を見て、あなたは何を感じ、何を思うか?

団塊世代およびそれに続く私たちの世代(現在63~69歳)の人たちは当時、その3つの価値観がバランスよく混じりあい、現在でもそれは継続していると思われる。いや、親の影響とか育った環境によって、3つの価値観の内どれか一つに大きく比重を占める人も多かったか・・。忘却の彼方に・・申し訳ない。

団塊というネーミングは作家の堺屋太一の命名であるが、「昭和22年から24年生まれ」と定義される。小学生時代に昼の2部制、午前午後に別れて授業をうけた彼らは、それほど人数が多かったので、競争意識や上昇志向も桁外れといっていい。また、良くも悪くも日本が先進諸国に成り上がっていくプロセスにおいて、つねに脚光をあびる中心的な世代といえた。これは世界的に共通する傾向であり、1947~1949年の3年間に限定するのはそもそも可笑しい。

私は昭和25年生まれだが、私たちの世代から小学校は通常の1部制になった。それだけの差しかなく、出生人口でいえば、昭和24年は267万人、25年は234万人で、その差は33万人でしかない。今となれば大きいが、当時「団塊」という言葉もなく特別な違いがあったわけでもない。

ただし、個人的なことを言えば、「団塊の世代」は学生時代にはいつも直接の先輩にあたり、その「圧力」をもろに受けた。そのせいか、ある種のルサンチマン(怨念)を抱いていることを認めざるをえないし、「団塊の世代」と一緒くたにされたくない。なので、内心ほくそ笑んでいたことは確かである。(※注)


竹下節子さんによると、フランスの社会学者の世代分類では、ベビーブーマーは1946 から1964生まれとのこと。ちなみに、1965 から 1979年がX世代、1980 から 2000年がY世代。2000年以降がZ世代、という世代区分をしている。

団塊の世代を含めて、戦後のアメリカ製民主主義の洗脳を浴びた私たちの世代は、日本人で初めて「空気を読む」ことを「嫌いだ!」といった世代である(と思う)。空気を読むとは、世間を意識し、社会を見、そして他者を忖度することだ。それよりも日本人特有の多勢に無勢、寄らば大樹の影だ。要するに多数派に与することだ。「赤信号みんなで渡れば怖くない」は、多数決主義、民主主義の亜種だ。

私たちはまず我らの「個」が大切だとアメリカ風に思わされていた(後年、これは都会だけだったと気づかされたが)。

今の若い世代の人たちは、「空気を読む」「場を感じる」という能力、感性が異常に高い。いじめられないように、浮いてしまわないように、つまり常に多数派でありたいと「気」を使っているように見える。それは悪いことではないが、個性とか本来の自分というものを、限られた特定のところでしか発揮、発露しないことになる。冒頭の尾原和啓氏のインタビュー記事にもあったが、これからの時代をになう、1980年以降に生まれたY・Z世代は、「意味合い」「没頭」「良好な人間関係」がモチベーションの源となるようだ。

こうした若い人たちの価値観を分析すると、これまでにない「機能的価値」に分類されると考える。「自分という個」が有効に機能するか、しないかだ。それはたぶん限定された「場、関係」でしか満足を得られないし、そこにしか意味や快感が見出せない「個」が見えてくる。そこになにか陥穽はないだろうか? 未来をになう世代が、これからどのような社会をつくっていくか、誰にも分からない。

 

(※注)私をふくめ今の60歳代の男性は、世代としては例外的に特異だとされているらしい。高度成長、それにバブルを体験していること、実は何をしても上手くいき、ちょっと努力すれば成果や報酬が得られた。それを自分の手柄、能力だと勘違いし、あろうことか大きな自信となっている。コミュニーケーション・スキルがなくとも成功体験があるので、寡黙で頑固者が多い。人間として相当に扱いずらい存在となっているらしい。(漫画家の東村アキコ氏の弁による。わたしはこの人の直感は鋭いと思う)


追記:新自由主義、グローバル化に全世界が染まったといわれる21世紀以降、人々の価値観は「損得勘定」に支配されつつあるという見方がある。宗教的、倫理的な道徳的価値観はすっかり後退し、つまるところ「モノの損得」「金銭、儲けの多寡」だけが問われる時代になってきた。

日本だけでなく世界共通の価値観として「損得」が主流になり、例えばその代表としてアメリカファーストを訴えたトランプを挙げたい。彼の「自国の損得のみ」を政治的メッセージとした。あるいは票田となるプアホワイトを主要ターゲットにして、かつての豊かな時代をとりもどすべく白人たちの損得感情を刺激した。白人至上主義を強調しなければ、大統領に選ばれることはなかったはずだ。

ビデオニュースの宮台真司は、社会的事象のほとんどをこの「損得」という欲望原理に当てはめ、××の一つ覚えのように行動結果の優位として分析する。それもまた滑稽にも思えるのだが、経済的価値のみに人々の関心が向くというのは、富むものと持たざる者の分断が激しく、実質所得が目減りして日々の生活が汲々としたものに感じている人が確実に増えているからだ。つまり「損得」で人生が左右されてしまう、そんな生活実感をもつのは当然の帰結といえなくもない。


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