小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

色と空

2016年03月23日 | エッセイ・コラム

 

岩手の大槌に 風の電話があること 知っていますか

父を亡くした三人の子どもと母親が 風の電話で話していた

代わるがわる泣きながら 津波にさらわれた父に話しかけていた

話したから悔しさや虚しさが晴れて 四人のいのちが輝いて見えた

 

色は世界である 色は価値である 色は物質である

空は虚無である 空は真理である  空は蒼穹である

ところがある刹那 色と空の転換が起きるという 転位ともいう

この世界・色のすべてが一瞬に 空になり 無と化す

いや虚無 空こそが 与えられた永遠の世界なのだ

色即是空 空即是色

 

                                                            木蓮や塀の外吹く俄か風 (内田百けん) 

そんな禅問答もいいが 街を歩こう 空を見よう

近くの枝垂れ桜が漲ってきて わたしを招いている

こぶし、木蓮の白も冴えて いい匂いがたまらん

路地の子どもたちの 笑い声がきらめいている

春の到来 肌にかんじるぬくもり 風のにおい

これがわたしの 色即是空 空即是色

この街に風の電話があったら 誰に電話しようかと

浮足立ったり 考え込んだり こんな日もいいかな

             

 

 

真木悠介の著書「交響するコミューン」に、「色即是空、空即是色」という短いエッセーがある。そこに書かれたエピソードが印象に残った。敗戦後の東南アジアで処刑された多くのBC級戦犯が同じような体験の手記を残した。その内容は彼らが一様に、符合ともいえる「回心のパターン」をみせたこと。死刑判決を受けて収容所に戻る時、自然のなんでもない光景に身の震えるような感動をおぼえた、と彼らは同様の手記を書いていたのだ。

「光る小川や木の花や茂みのうちに、かつて知ることのなかった鮮烈な美を発見」した。そこは戦闘中になんども行き、目にした光景であるのに、「光る小川や木の花や茂み」を見た記憶がなかった。しかし、「これらの風景と瞬間は、いまはじめて突然のように彼らをおそい、彼らを幻惑し魅了した」と。宣告をうけた彼らと野原の出会い、その一瞬に真木悠介(見田宗介)は「色即是空、空即是色」を見出したのではないか。

生きることの刹那にも、人間はいとおしい豊饒な感覚をとりもどす、そんな経験をするのだ、と。

色即是空、空即是色を辞書でひもとけば、「この世にあるすべてのものは因と縁によって存在しているだけで、その本質は空であるということ。また、その空がそのままこの世に存在するすべてのものの姿であるということ」。

私たちの人生は、考えてみれば儚いものだ。巨視的にみれば、一瞬の生である。地球の歴史、宇宙の時間のなかでは、人類の全歴史でさえ、刹那的なものかもしれない。とはいえ、私たちが生きているこの一瞬でも、「色即是空、空即是色」という、いわば転位の弁証法によって、おろそかにできない大切な瞬間となる。

死刑判決を受けたBC級戦犯はまさに、ほんの垣間見た自然の姿に鮮烈な価値を見出した。後悔と諦観が来る、それ以前のはなしだ。

私たち人間は、自然という世界に対峙するだけの生きものではない。儚い存在とはいえ、宇宙と真理に包まれている。そのように大きく考えよう。

なんだか抹香臭くなってしまった。爺の戯言におつきあい、切に深謝。

心にゆとりがあればこそ、街にでて花を見、風を感じよう。青い空に包まれている私を、後ろの心で見る。

大槌の四人の母子たちは、風の電話で話した瞬間、亡き父の声や笑顔を、心のなかの絵で見たのだ。

 

 

▲近くの寺、長明寺のしだれ桜、これでも六、七分咲きといったところ。(3月21日撮影) この美しさを伝えたくて、ブログなぞ書いているに過ぎない、かな。


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