小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

花まつりの向こう側ー②(続き)

2017年04月10日 | 国際・政治

 

アイデンティティとか文化といった高度に複雑な問題が、まるで漫画の世界に存在するかのように扱われ、容赦なく殴り合いを続けるポパイとプルートーのように、一方がつねに相手方よりも徳が高く優位にある、というようなかたちで描かれている。  E.W.サイード「戦争とプロパガンダ」より

▲自室のノートPCでブログを書く。ほぼ満開となったソメイヨシノ。残念ながら天気悪し。

 

前回の記事の続きを書く。

不穏な動きは中東だけではない。私たちのお隣さんの国のこと。

いつのまにかミサイルの性能を向上させた北朝鮮である。10年ほど前になるが、「北朝鮮の核」という記事を書いたことがある。ならずもの国家というよりも、アメリカの軍産複合ストラテジーによって泳がされている、自暴自棄かつ世界のKY国家。あの金正日の時代は井の中の蛙状態にあり、よく言えば唯我独尊の我が儘国家であった。

その北朝鮮は世界のKY国家であることに変わりない。が、息子の金正恩は異様なタレント性を発揮、かつ暴走し始めた。あれよというまに国際的パワーバランスをかく乱させる、脅威的プレゼンスを示す国家にまで成り上がってしまったのだ。

ご承知のごとく、金正恩の義兄暗殺事件がクアラルンプールで起きた。その背景には以下に述べることの、金正恩の過剰な反応が顕われたといえるかもしれない。これがなくとも、核実験や新型ミサイルの度重なる発射などで、北朝鮮は国際的な危険国家の第一線に浮上していた。父親のDNAを引き継ぐべく、疑心暗鬼の遺伝子をたっぷり貰っていることは確か。

一方アメリカは、韓国民の自己損傷愛の悪癖を見限った。そのうえで、中国、ロシア両国への政治・経済のミックスした牽制と駆引きを駆使しながら、北朝鮮が有効な政治的カードになるか総力をあげて模索し始めたのではないか。つまり、北朝鮮の地勢的な優位性に気づき、国家戦略を展開する橋頭堡として見做したことになる。(これは論理上の一つの仮説、いや妄想です)

北朝鮮への軍事的介入、或いは金正恩の暗殺計画を、トランプ大統領は国家戦略策定のテーブルにのせたというネット情報。それは上記の筋書きを物語っていると思う。無視すればよし。単なる流言、デマだったら笑って済ませられる。

ただ、昨日書いたことだが、バノンがNSC(国家安全保障会議)の首席補佐官の席から引きずり降ろされた。この事の意味は、暗渠に脈々と流れる川である権力のメインストリームの為せる業、天に代わってのお仕置きに違いない。やはりトランプは、自らの手のうちに伝家の宝刀があることに気づいたのか。それともその筋から囁かれている段階なのか。この二、三カ月ぐらいで、なんらかの兆候があると考える。

さて、国内に目を転じよう。

森友問題、或いは豊洲への築地市場移転問題、このふたつだけでマスコミは騒然としていた。ところが、その裏側では「種子法廃止法案」、「医療ビッグデータ法案」というアメリカ寄りの法案が審議されていた。その他、「家庭教育支援法」や「親子断絶防止法」など、個人の尊厳、権利などに国家が露骨に関与するという意図が明々白々の法案も俎上にのぼっていた。

安倍晋三夫妻の問題に限らない。菅官房長官はじめ現政権の誰彼となく彼らには、たとえば教育勅語を幼い子供に暗誦させたいというウルトラ・アナクロ・ナショナリズムという心性の持ち主である。戦前の、武士道や品格という精神性がニッポンの根本だという幻想を抱いている。はっきり言おう、精神性に依拠するものは、科学性がないことは勿論、知見のない餓鬼だ。よくいえば少年のように幼いことだ。マッカーサーが日本人を何と言ったか思いおこせば足りる。

そうした政権の動きを見れば、「共謀罪」は得体のしれない国家的××の象徴のような法案そのもの。東京五輪向けの限定的「テロ等準備罪」という化けの皮はすぐに剥離したが、適用される犯罪を277も取り揃えたところが空恐ろしい。何でもかんでも取り締まる、荒んだ魂胆が見え隠れしている。もっと大きな邪悪な目的があるはずで、私が想像したことをここに記すことは憚れる。(××は適当な言葉が見つからない)

 

東京新聞を読んだが、作家の中島京子氏は特に、共謀罪に適用される一覧のなかに「著作権侵害」が含まれる危険性を指摘していた(※)

まずこれだけ多数のテロと直結しない犯罪が入っているのは、捜査機関が目を付けた人物を検挙するのに都合いいこと。共謀罪の隠された問題点とは、頭で考えたことが犯罪につながる、つまり心の中を取り締まる法律だという点。なかでも小説も含めた芸術一般に関わる著作権侵害が共謀罪に含められたことは、人間の複雑さを表現する環境や創造性が支配されること。すなわち「内心の自由」が奪われることになると、そのはかり知れない危険性を訴えていた。

一体全体、世界の国々のトップ、支配層は何がしたいのだろう。己がもつ権力のパワー見せつけたいのか、それを全世界へと及ぼしたいのか。グローバリゼーションと無際限の金融政策によって、想像をこえた国家の疲弊を回復しようともがいているのか。そのいずれか、もっと違う高邁な野望があるというのか・・。

 

私が思うに、統治とか統合という原理に、人々はもう辟易しているのではと思うのだ。資本主義は世界の隅々にまで行き渡り、モノと情報も手軽に入手でき、かつ自由に使いこなせる。所得が低くても生活を享受できるならば、誰かに依存したり、支配されたりするのはまっぴらご免。平和と安寧の定常化で十分である。

もっと限りのない成長を望み、より資産を増やしたい方は、地球の外に行ってその野心と活力を発揮していただきたい。

いや違うな。分断化、貧困化という現象は目に見えて、もっと深刻化している・・。

意欲とか希望が失えば、それは生きろ!ではなく死ね!である。宗教はいまや××へのツールだ。(××は、癒し、逃避、埋没、偽善etc)

依存から支配へ、そして統合への途は、ある種の奴隷化へとつながりはしないか。茫漠とした表現だが、現在の国家レベルの統治スタイル、パラダイムが限界を示している。そんなこと言っても、何も始まらないのだけれど。


(※)共謀罪により著作権の一部が実質的に非親告罪化になるかもしれない懸念があるということ。二次創作物を団体サークル活動で作成し不特定多数に頒布する活動の相談は共謀罪の構成要件を充足することになる。

 

 

 

 

 

 

 

 


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