小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

パノプティコンとシノプティコンの並立

2020年08月26日 | エッセイ・コラム

パノプティコンについては以前このブログでふれた。自分から言うのは気恥ずかしいが、意外にも息の長い人気記事となっている。

何故なのか不思議に思っていたところ、或る高校生がコメントをくれて、教科書に「パノプティコン」が出ているからだと知らされた。→「実在するパノプティコンと監視社会

その後、自分であれこれ調べてみた。多くの高校で「見守り君」という監視カメラが設置されるようになったらしく、それが教科書掲載の事情・背景にあったのだと了解した。敏感で知的な多くの高校生が「見守り君」の胡散臭さに気づき、「パノプティコン」の何たるかを調べていたら、愚生のブログに遭遇したと思われる。

『監獄の誕生』を著わしたミッシェル・フーコーは、権力が関わる「抑圧の系譜学」の大家で、「処罰から監視」への移行が、近代という歴史の節目だからこそ特徴的に現れたと分析した。刑罰制度は、公衆への面前で身体に苦痛を与えるものから、監禁して矯正するというシステムに変容した。即ちそれは、規律のメカニズムを確立し、従順で有用な人間に仕立て上げる。その目的のもとに、「近代の監獄」が創りあげられた。これがフーコーの監獄解釈の初期設定といえるか・・(それ以前に、精神病者の監禁と近代の病院をテーマにした『狂気の歴史』がある)。

また、処罰の経済性という観点からいえば、罰するより監視する方が費用対効果に優れていて(死刑で殺すよりも、更生させ一労働力として重用*2022/10 /12追記)、パノプティコンはそうした権力側の経済効率を視野にいれた重要な概念だ、とフーコーは対談集で言及していた(フーコー・コレクション4)。

当然のごとく、「監獄」は新たな犯罪者を作りあげる装置でもありえる。外部のいわゆる「マフィア」と密接に結びつくことで、権力(=社会基盤)の闇・影の部分を担うものは貧民や犯罪者を吸収し、社会の包摂に寄与する。

フーコー自身は、権力システムの構造そのものに特別な関心はなく、もっと内的な、個人の「魂」の在りかたを追求してゆく。対談では以下のことを述べていて、端的な言表だといえる。

私が権力のメカニズムを考えるときは、その毛細管的な存在形態を考える、つまり権力が個人ひとりひとりの肌にまで到達し、その身体を捕らえ、彼らの所作や態度やものの言い方、さらには学習や日常生活といったものの内に浸透してゆくそのレベルで考えるんです。 (コレクション4「権力・監禁」より)

フーコーはその後、抑圧の系譜学を「性」に力点を移したが、パノプティコンはそもそもイギリスの思想家ベンサムが囚人の自力更生と監理の功利性などを重視して考えられたもの。フーコーはそれを換骨奪胎して「権力の監視システム」として読解した。

ご承知のとおり、フーコーはそれから、権力の抑圧の系譜を『性の歴史』に焦点を絞って執筆をはじめた。なので、パノプティコンという言葉は、さしたる理由もなく独り歩きし始めた。偶々目にふれたのだが、NHK出身・東大話法の論客・池田某が「フーコーは後に、パノプティコンという概念を撤回したし、実在したこともない」と、素っ頓狂なことをいっていたので、愚生は前述の記事を書いたまでである。

 

さて、そのパノプティコンだが、3、4年前になるか岡本裕一郎という先生の『モノ・サピエンス』(光文社新書・2006年)を読み、ノルウェーの社会学者トマス・マシーセンの「シノプティコン(synopticon)」という概念があることを知った。
フーコーよりもより現代・未来を見据えた思想とのことだったが、当のマシーセンの著作が翻訳されない。そのうち翻訳されるだろうと期待していたのだが、今になってもマシーセンの著書は出版されない(ウィキペディアにさえ紹介記事がない)。

簡単に言えば、フーコーの「近代は少数者が多数者を監視する社会である」ことに象徴されるパノプティコンに対して、「多数が少数を監視する情報社会」というシノプティコンという考え方がトマス・マシーセン。

フーコーには意図的な見落としがあったと、マシーセンはいう。フーコーは「古代=見世物」、「近代=監視」と主張したが、こうした対比は歴史的にはうまく説明できない。パノプティコン的なシステムは、過去2世紀の間にきわめて発展したが、しかし、ルーツとしては古代にある。単に個人の監視技術だけでなく、パノプティコン的な監視システムのモデルもまた、初期キリスト教時代かそれ以前に遡るとされるのである。

(これは筆者にとって、新たな興趣のネタになった。「古代=見世物」は、ギリシャ・ローマ時代の円形闘技場を思い浮かべるが、中世以降は作られていないのは何故か。マシーセンはこれをどう考察したのか、原書で読む知力、根気が失せているので、翻訳を待つしかないのだ。)

ここからは、岡本先生の著書より引用する。

フーコーが強調するように、監視の技術が近代に特有というわけではなく、むしろそれ以前の社会に遡るというわけです。さらに、もう一つの側面にも注意しなくてはなりません。近代社会では、「監視の技術」だけが発展したわけではなく、「見世物(スペクタクル)」の側面もまた飛躍的に増大したのです。
ところが、フーコーはこの側面をまったく無視してしまいました。このような理解にもとづいて、マシーセンはパノプティコンに対抗する概念を提唱しています。
パノプティコン(panopticon)は語源的には、「すべて」を表す「pan」と、「見る」にかかわる「opticon」から構成され、多数者を見通す監視システムです。それに対して、マシーセンは「監視」だけでなく、多数者が少数者を見るという見物の側面も同時に備えた概念として、「一緒に、同時に」を表す「syn」を使って、シノプティコン(synopticon)と名付けています。つまり、私たちは「監視される者」であると同時に、「見物する者」でもあるのです。

マシーセンによれば「見世物」を、現代のマスメディア(特にテレビ)と考えているが、現代の状況からすればスマートフォンを想定するのが適切だと岡本氏は指摘している(追記:2018年頃のネット記事より)。

つまり、私たちのほとんどがスマホを使い、情報検索やSNSを利用している。それは同時に、サーバーからも、不特定多数からも、私たちの動向がつぶさに監視されている、と見なすことも可能だということだ。
岡本先生いわく、「画面を見ることは、同時に監視されることでもあります。この二つは、切り離すことができません」と。

マシーセンはさらに「監視」だけでなく、多数者が少数者を見るという見物の側面も同時に備えた概念として、「一緒に、同時に」を表す「syn」を使って、シノプティコン(synopticon)と名付けた。まあ、無理のない理路である。

フーコーの「監視社会」の概念は、発表された当時(1970年代)としては、きわめて斬新に見えたが、現代の状況からすると、そのままでは古く、いろいろ手直しが必要になる、とマシーセンは指摘する。その一つが、「デジタル化」の問題。

フーコーのモデルでは、監視の技術はいわば「アナログ」的なもので、記録も文書によって蓄積されていた。現代社会では、生活はほとんどデジタル化され、通信や情報管理、さらにITやAI、GPSなどのテクノロジーの進化により、「監視」あるいは「見世物」という概念は大幅に修正を加えなくてはならないだろう、と。

マシーセンが「シノプティコン」を提示した時代よりも、さらに事情がことなる現況がある。岡本先生は、アメリカのメディア学者マーク・ポスターの『情報様式論』(1990年)における「スーパー・パノプティコン」という概念にふれているが、筆者はO.H.ガンジーの『個人情報と権力』という著書で展開されている「パノプティック・ソート」という概念に大いなる刺激を受けた。

▲先日、BSでフランスARTEのドキュメンタリー『70億人の監視社会』を視聴。以前、トラック暴走テロがあった二ース市の監視システム。

▲上記番組のなかで、中国新疆ウィグル地区におけるイスラム系住民への拘束。顔認証・音声認識などで永久的に個人特定される。

現況はといえば、米中の対立は鮮明化していくだろうし、中東の政治的状況も不安定だ。移民・難民問題は解決の糸口さえも見つからない。それにもまして、現在のコロナ禍が世界に蔓延し、終息の見通しが定まらない。そんな中で、個人レベルでのセキュリティやアイデンティティの保障など、どう考えたらいいのか・・。当の権力中枢さえも考えあぐねているのではないか。いやいや、日本にいるかぎり、そんなことは考えなくても済むほどに、安心・安全な社会か?

少なくとも中国は、超監視社会へのプラットフォームを構築した(香港、台湾、その他、問題は多いが)。目下の習近平体制は盤石にみえるがどうだろうか。

アメリカといえばトランプ政権の行く末が気になるものの、BLM以降、どの政権が担当しようと州ごとにガバナンスは異なるので、監視システムの統合には課題が多い。ヨーロッパにしても、英国を含むEUは、遅かれ早かれ監視システムのハイテク・重装備化は進むだろう。目下の難民(アフリカ・中東)の受け皿はここしかないのだから・・。

いや、日本においても、コロナ禍を体験した以降、医療的セキュリティとアイデンティティ保障などの課題はあり、個人として何を志向すべきなのか誰も確信があるとは思えない。浮世に流れるままに、と呑気に構えていいのだろうか。

これからが稚拙な仮説、つまり思いつき程度のことだが、「パノプティコン」と「シノプティコン」の概念は、小生必ずしも対立しないと考えている。相互に補完的な関係も成立すると考える。主観的な見方と客観的な判断が同時に行えるようなシステムが、この「パノプティコン」と「シノプティコン」によって実現できると夢想した。

とまあ、ここまで書いてきてまたもや長文になってしまった。稿を改めて、記事を続けることにしたい。

▲岡本裕一郎氏の著書。右は、比較的最近のもの。


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