前回の記事でトマス・マシーセンのシノプティコン(synopticon)の概要にふれた。「多数者が少数者を見物する」という古代の「見世物」という概念(※)が、テレビなどの映像メディアを観て、パーソナルに楽しむという文化に成熟した。
それが今や、ITや人工知能などのハイテク化と、光ケーブル通信に匹敵する情報量=5Gであるワイヤレス・メディアの全盛を迎えようとしている。
スマホというメディアは、もはや水や空気と同等に必須のものとなりつつある。一個人として生きていくうえで、交信、購買、交通、娯楽、安全などの管理作業を束ねる生活基盤ツールだ。未確定だが量子コンピュータが実現し、一般に普及するまで、スマホの機能やアプリは今後もさらに進化していくだろう。と同時に、国家・政府がそこにガバナンス的な関与を加えることは目に見える。そうなると、やはり圧倒的に中国が優位にたち、ハードもソフトも世界を席巻していくと思われる。
スマホに象徴される個人メディアに関連して、シノプティコンの概念=「見世物」に引きつけて考えれば、SNSやYouTubeに代表される「投稿サイト」を想起せざるを得ない。動画の投稿は基本的に、個人が自らのキャラクターや行動、作品、時には意見・思想を、「多くの人にシェアする」というコンセプトで認知され、発達してきた。言いかえれば、多数の人が、個人や少数者に注目することだ。前回記事の「パノプティコンとシノプティコンの並立」とは、このことを漠然としてイメージしていた。
さて、シェアとは、共有する、分かち合うことであるが、まず初めに投稿する側は、不特定多数の人たちに「私」を晒す・むき出しにすることでもある。もちろん、SNSに限れば、それは限られた交友関係のみに設定できる。或いは、利害が一致する特定のグループやコミュニティの範囲に限定してもいい。いずれにしても投稿の要諦は、自己を多数の他者に見てもらうことであり、その結果の承認・「いいね!」評価の期待を含むものである。
動画投稿サイトとして全世界に普及しているYouTubeは、まさに「見世物」としてのエンターテイメント性が重要となる。小生にとってのYouTubeは、これまで音楽が90%、その他、思想・文学系のインタビューや講演・対談を視聴し楽しんできた。それもプロフェッショナルな人たちの、貴重かつレアなビデオがほとんどだからこそ視聴してきた。
話がとんで申し訳ないが、こんどのコロナ禍で家にこもる生活となり、YouTubeをなんとなく視聴する機会が増えた。読書ばかりじゃ息が詰まる。テレビはどこも同じ内容、同じ顔ぶれ、面白くも何ともない。ITに広告収入を凌駕され、視聴率&ポピュリズムを重視した番組を量産する民放テレビ。いまや悲惨な状態で目も当てられない。
そんななか、YouTubeにはごく普通の個人、市井の人々の投稿動画も多くあり、驚くべきエンターテイメントなりドキュメンタリー性を感じさせるものも多々あった。特に、国際カップル、海外移住者の投稿動画には、世界で生きることの多様性とか方向性を感じさせた。
小生のように、今回の自粛騒ぎで、YouTubeを視聴する機会が増えた人は多いのではないか。また、自分で撮った動画をアップロードする人も、コロナ禍の最中だからこそ、けっこう増えたであろうと思われる。
ご存じだろうが、YouTubeやSNSは報酬系アプリであり、多くの視聴者が見ればみるほど、広告に連動したアフィリエイト型の報奨金が投稿者に振込まれる。先日、鉄道オタクの青年が「年収は安倍首相より上です」と、やや誇らしく嬉しそうに、しかし申し訳なさそうに告白していた。フォートナイトというゲームを実況する中学生でさえ、身に余るお金を稼いでいるらしい。
そうした運よく儲かる人ではなく、歳を重ねても自己啓発、趣味、研究観察など、個人的にYouTubeを楽しむ方の投稿動画にも、多くの人々が注目した。70歳を過ぎてから、既存のチュートリアル・アプリを学習し、自前のアプリを一から作りあげたお年寄りの女性が、アップル(?)に表彰されていたのは記憶に新しい。
「多数者が少数者を見物する」というシノプティコンの概念は、少数者が多数者に見物してもらう状態とほぼ同義だ。個人で動画を投稿するYouTuberは、報酬を得ることをインセンティブにして投稿を増やし、やがて職業化していく。実際には、知名度のない素人でも、多額の報酬を得る億万長者として話題になる。そして今回のコロナ禍で、あらゆるカテゴリーで素人YouTuberが雨後の筍のように出現した。
端的に話をすすめよう。
先日、アメリカ、ウィスコンシン州のBLMのデモの最中に17歳の少年が銃を発砲し、2名の死者がでた。この少年は、ある使命感をもって銃を使用することをSNS上で公表していた。ニュージーランドにおけるイスラム教モスクへの銃撃テロは50名余りの死者がでた。その時に犯人は、そのテロ行為をSNS上で放映していたという。その同時中継をただただ視聴し、なかには犯人に同意する、惨劇を煽る書き込みをする者たちもいたという。
日本にも先例がある。秋葉原大量殺傷事件の犯人もまた、ネット上に自己の心情らしきものを書き込みながら、それを見ている人たちの反応を気にしながら、前代未聞の犯行に及んでいった。誰からのレスポンスもなく、犯人はそのことに「切れて」、殺人鬼に変身した。
彼らは事を起こす前に、ヴァーチャルともいえるが、不特定の他者たちに対して自らを監視される立場に身をおいていたのだ。筆者は、これを特筆すべき事象だと考える。監視ではなく観視する人々がいて、犯人の一挙手一投足を観ることもできたのだ。煽ることもできるが、待ったをかける、熟考を促すこともできた。
なんらかのトラウマやスティグマを抱える個人を救済する方法は、現在でも多種多様にあるだろう。しかし、引きこもりの若者から一人暮らしの老齢者に至るまで、世間との交渉がなくともスマホさえ確保できていれば、冷たい監視であれ温かい見守りであれ、他者のまなざしを感じる可能性がある。ここに、人生を積極的に且つ肯定的にとらえ、社会や世界にアジャストできる、孤独で悩める人たちを支え、あたたかく見守る双方向交信システムの萌芽がある。
突然、社会からはじかれ、身の置き所がなくなるケースは誰にでも起こりえる。今回の新型コロナ感染者への差別(※2)は、意外や深刻で、感染の少なかった地方に多いという報告があった。自己責任論をふりかざして糾弾しているのか知らんが、これはきわめて日本人特有の差別である。山岸俊夫、宮台真司がいうところの、集団内外における日本人の隠れたる個人主義、排斥主義、同調圧力は根深く、潜在的なエートスといえる。
SNSや動画投稿サイトにもろ手を挙げて賛美するわけではないが、差別されるもの、孤立を強いられるもの、身の置き所のないもの、そんな彼らへ温かいまなざしを送ることができる。また、彼らからの切れ切れでもいい、心の叫びのメッセージが届くかもしれない。
そんな双方向のメディア・ツールは、実際のところ国家が無償で提供するべきものと考える。これは国家社会主義的なイデオロギーとは無縁である。個人と他者が有効につながり、社会化されることのエッセンシャル・ツールなのだ。
どんな「私」でも見出され、誰とでもつながることができる。これは理想ではなく、未来の基本というべきだろう。
(※1)古代ギリシャ・ローマ時代の円形の闘技場や劇場、中世から近代にかけての「サーカス」を想定している。
(※2)これを機会に、日ごろ思っていることを書こう。差別する感情、心性は、トランプに代表されるように「教養がない人」、これに尽きる。西欧文化でいうリベラルアーツ的な素養がない人だ。何かの専門知識を有していても、その偏った知識に依拠し、すべての言動にバイアスがかかっている人だ。
備考:記事内で使用した写真は、ネットで提供されているフリー素材です。ご提供、ありがとうございました。