小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「付け入る・付け込む」という心理あるいは戦略について

2016年06月23日 | エッセイ・コラム

 

ある評論家のメルマガを購読すると、好むと好まざるに関わらず自動的にその方と近しい方のメールが送られてくる。「別にいいや」と思っているし、それを拒む設定の仕方も分からない。

そのメールとは、京大経済学部教授F先生が書かれたもので、アベノミクスの大目標の一つ「GDP600兆円」が、いかに荒唐無稽の数値かを揶揄したものであった。

その主旨は結構であるが、GDP(国内総生産)は国民平均所得と同等とするコンテキストで貫かれていて唖然としてしまった。当該部分を以下に引用。

GDPというのは、国民全体の所得の合計値であり、今日のGDPは約500兆ですから、これは国民所得が「1.2倍」になるということ。そして今日の平均年収が400万円強ですから、これが1.2倍になるということは、「年収が80万円増える」ということ。ですから、600兆円経済を目指すということは、国民の所得が80万円増える、ということを意味しているのです!(※1)

 

GDPはすなわち国民所得であるとして、ひと昔前には当然のごとく論じられていた。(※2) これは厳密性を欠いたもので、F先生は国民の平均年収とGDPをほぼ等しいものと見なしている。やはり、ちょっと乱暴いや誤謬であると思った。

F先生の名誉のために書くが、今後こんなにも年収のアップはほぼ望めない。「GDP600兆円」は、絵空事だというのが骨子だ。私も同感。だが、先生の自論を裏付けるエビデンスは、国税局の「民間給与実態統計調査」。残念な選択であり、これはいかんともしがたいミス。

ネット上では、或る人の言動に瑕疵やケアレスミスがあった場合など、いわゆる敵対する立場の人などが、ここぞとばかりに「付け入る・付け込む」というケースをよく見かける。このF先生はマスコミにも知られた人物だ。こんなあってはならない誤用、勘違いを、もし論敵ともいうべき第三者にめざとく見つけられてしまったら・・。面倒くさいことになるなと思った。

 

ここからが言い分。(ちょっと偉そうに書いたら最初からお詫びします)

「付け入る・付け込む」なぞという行為は、ふつう賤しい、卑怯なことだと認じられているので、普通にはやらないであろう。「揚げ足を取る」ことも同じで、近い意味として使われている。敵対していなくても、人が苦境にたっていたり、何かの弱みを見せたとき、そこにすかさず「付け入る・付け込む」輩は、相当に性悪というしかない。

日頃、顔もみたくない或いは対立する人がいたとしたら、同席・同舟は極力避けるだろう。よしんば議論することになって、その場で相手の間違いや無知が露見されたとしよう。それをここぞとばかりに、逆手にとって責めたりはしまい。これが無意識にできる人は、「付け入る・付け込む」ことに罪悪感はないはずだ。「凡庸なる悪」に通じるようで、これもまた怖い。

つまり相手のスキ・弱点を殊更に責める行為、苦境に陥ったことに乗じて付け込む行為は、道徳的規範から逸脱する行為そのものである。日本人として「やってはならない」文化的慣習(エートス)として位置付けられていると私は思う。それをやったことがある人、たぶん第三者からの冷たい視線に曝されたか、陰で評価をだいぶ下げたはずだ。

その一例として、悪評高い東大話法や京大話法にしても、相手のミスに乗じて「付け込む」ような人品にも悖る話法は、両方ともに一つしかない。両話法のほとんどが自分側に属することで、立論や立場を補強するものに限定されている。これは流石だと、言っていいかな? 

その一つが以下の話法である。

相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。(東大話法 11)

都合の悪いことに思わず喰ってかかる。(京大話法 3)

(参考:東大話法vs京大話法)     http://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/783e3401b761de516c28608fb68b607e


さて、「付け入る・付け込む」という方法は、兵法とか戦略として見た場合、どうなるか考えてみた。

宮本武蔵はどう対処したか・・。佐々木小次郎の剣がひときわ長いと分かった時点で、さらに上回る長い剣を急きょ拵えた。舟の櫓で作ったとされる。わざと遅れて小次郎を焦らし、心理的に優位に立つ戦略をとった。つまり、相手に付け入る隙を見つけ出すなんて悠長なことだ。武蔵ならば自分からポジティブに動き、先手となる策を講じた。もちろん、卑怯な手を考えるさきに、まず負けない手を、勝つべき策を立てた。それよりも、付け入られることのなきよう、日頃からスキのない精神を保ち、身体能力を磨いていたに違いない。


兵法の書「孫子」は、今日でもビジネス書としてひろく読まれている。その「三十六計」のなかに「付け入る・付け込む」はどう評価されているか。

生死を分かつ戦争なら、どんな手練手管も仕込まれていて当然であろう。精読したことはないのだが、たぶん少ないだろうと、私はおもう。「孫子」の凄いところは、戦わずに勝つことが至上とされるし、兵を用いた戦闘になっても敵国を痛めつけないで降伏させることに主眼を置くからだ。つまり、勝っても後の事を考えて、つまり敵国を支配し統治する。さらに、敵の兵を味方として引き入れて、自軍の増強を図るという壮大なビジョンがある。

敢えて探せば、四章の「形篇」か。ここでは「敵の崩れを待つ」ことが主眼となるが、ここでも「待つ」という受動的な構えが基本。「守は則ち余りあり、攻は則ち足らず」となり、守備の方が戦力に余裕が生じて有利な戦闘形態がとれるとある。もちろん攻が主、守が副となることもあり固定的な戦略は避ける。

「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。故に善く戦う者の勝つや、智命もなく、勇攻も無し」。戦に優れた者は、勝ちやすい敵だから勝つのだ。つまりそんな戦上手の者は、知恵者であるとか勇猛果敢な者として評価されることはない。(勝つべくして勝つ、それが当たり前のように勝つから、その勝利は評判になることはない)

いやはや、当たり前のような戦略論だが、なかなか出来ないことだし、深く含蓄のある言説である。

実は欧米の、アングロサクソン系の戦略についても書いていたが、偏向していると誤解されるかもしれないので省略した。一言付け加えれば、「付け入る・付け込む」こそ必勝のポイントだという戦略を辞さない。非情であるが合理的に圧倒的な勝利を得ることができる。また、勝者としての立場を戦後も継続できる(植民地化、属国化)。ざっくりいえば、それがアングロサクソン系の戦略の要諦である。

 

 以上、老人の世迷言に付きあって下さり多謝至極。(誰も付き合っていないと思われるが、一応礼儀として記す)


梅雨入りしたが、思ったよりその気配は弱い。今日の雨で首都圏の水瓶が潤うかどうか。先日、梅雨入り宣言の翌日だったか、晴天のなか紫陽花が見頃の白山神社に出かけた。

▲去年は時期を逸したが・・。

▲6月10日頃。白山神社にて。

                

▲白山神社から小石川植物園へのコースが定番。右が植物園のもので、たぶん「シデシャジン」(桔梗に近い)ではないか・・。その他、機会があれば別の機会にお見せしたい。


(※1)単純に日本の人口数をベースに試算したら、先生による数値結果は簡単に求められた。

(※2)GDP(=国内で生まれた所得)に海外からの純所得(受け取り-支払い)を加え、固定資本減耗と純間接税(生産・輸入品に課される税-補助金)を取り除いたものが国民所得。国民の総年収所得は、GDPの約60%程度とされるのが一般的だ。GDPやGNIなどSNA統計全体をひっくるめて「国民所得」や「国民所得勘定」と呼んだりする場合もあるらしいが、その場合は別の用語と考えたほうが良いとのこと。

 

 


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