小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ふたりに、おめでとう

2018年02月18日 | 日記

 

平昌オリンピックで羽生結弦さんが金メダルを獲った。怪我を克服して、66年ぶりの五輪二連覇達成!

国内では将棋の藤井聡太五段が羽生善治二冠を破り、決勝に進出。その勢いか知らん、本戦決勝で広瀬章人八段を117手にて完勝。日本初、中学生プロの六段昇進である。それにしても、棋界の天才「羽生」を打ち負かしての栄冠だ。

「羽生」は勝ち、「羽生」が敗けたなぞと、お道化たことを言いたいのではない。日本の若き男たちの活躍がこれほどまでに悦ばしく、発奮させてくれるのは珍しい。

世の中の動きには刺激を受けず、いちいちブログには書かないことを肝に銘じている。しかし、この二人に関してはこれまでに触れ、こと羽生結弦さんに関しては、二度までも記事を立てた。(今回は、孫ほどの年齢ではあるが「さん」づけにしたい)

最初は「光源氏」として、次に「源義経」としてなぞらえ、羽生結弦さんの「丈夫(ますらお)振り」について書いた。我ながら好き勝ってなことを書いたし、無作法な記事の展開であった。「光源氏」のときは羽生結弦さんを引合いにして、政治家をあげつろい、女子の空手やパフュームの映像を紹介したかった。

もちろん、彼の渾身のスケーティング・演技だけでなく、その立ち居振る舞いをふくめて、底知れない気品、優雅さに感動したことは確かなこと。日本の歴史のなかでも古層というか、古から継承されている何か「大和男」なるものを感じてしょうがなかったのだ。

純粋に羽生結弦さんの「美しさ」そのものを愛でる女性ファンからすれば、この古臭い手垢にまみれた古語「大和男」という言葉は死語であり、雑音として聞こえたであろう。

ただ今回、羽生結弦さん自身が平安時代の陰陽師「安倍晴明」になぞらえ、京都の晴明神社に祈願したとの記事を読んだ。演技のバックにかける曲も安倍晴明にちなんだ映画のサウンドだったとのこと。彼自身が古(いにしえ)の男を尊び、精神のあり方を学んだのだ。日本古来より伝わる本物の男のDNAを感じ取っているのかもしれない。

かとおもえば、怪我をして二か月の間に、大学の通信講座を受け、身体論や運動力学などをまなび、体と心のバランスについて科学的な方法を研究し、自身のスケーティングを再点検したという記事も読んだ。

藤井聡太さんにしても、コンピュータのAI将棋はもちろんのこと、幼いころから全10巻になる「羽生の頭脳」を読み続けた。これは、プロ棋士さえも参考にする高度な定跡書である。

やはり二人とも、幼い時に自分の好きなことをみつけ、夢と憧れを思い描いたのであろう。だからこそ、そのための合理的な方法論や計画を具体的に実行したのだ。彼らのそんな精神にあやかり、爪の垢でも煎じて飲みたいものである。

それにしても、お二方のご両親が表面に出ないことが素晴らしい。マスメディアの怖さを知っているからだ。彼らの毀誉褒貶や、プライバシーを平気でのり越えてくるビジネスライクな取材に対して、一線を画しているのだと思う。そういうスタンスを守ることに尽力を惜しまないのだ、たぶん。子どもが他者に翻弄されることのないよう、最善の環境をととのえてあげようとする親御さんの姿勢が伝わってくる。

 最初、タイトルを「若き大和男たちに乾杯」とか「若き獅子たちに学ぶ」とか書き迷っていた。ここは素直に、羽生結弦さんと藤井聡太さんを祝福すればいい、と思い至った。

「ふたりに、おめでとう」、それだけが言いたかったのだから・・。

 

▲二人の記事が同時に紙面を飾った。嬉しい、素晴らしい。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。