小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

星合いあるいは星祭の日に

2020年07月08日 | エッセイ・コラム

今日は七夕である。goo blogより一年前に書いた記事のお知らせがメールで来る。去年書いたものを気づかせ、「今年もなんか書けば」というモチベーションを送ってくるわけだ。ふむ。

近頃、作句をさぼっているので、「七夕」にちなむ句を詠んでみるかと思い立つ。が、俳句の季語としては「秋」であることがわかった。機先を制せられる気分で、梅雨というよりも大雨の災厄、九州の洪水被害が深刻きわまる今日という日。案ずるより、息むべしかな。

去年、一昨年も、各地の大雨による災害は酷かった。「これまでの記録にない」を毎年聞くような気がする。ので、「七夕」の時期の季節感はもはや失われた感が強い。それにしても、年々、さまざまな災害、つまり自然の反乱に私たちは当たり前のように翻弄される。

幸い、こちらは被害はないが、九州地方の河川の氾濫、被害にあわれた人々の表情をみると、居たたまれない。こころよりお見舞いを申し上げるしかない。

 

さて、いま一度「七夕」の来歴、先人の俳句例をながめていた。加藤郁乎の『江戸俳諧歳時記』、その孫引きになるが、江戸時代の文献のさわりを紹介する。

七夕の前、短冊紙を売来るは、享和の頃はいろ紙計を売、文化の頃よりさまざまの形を切て売、
近頃は板行にて梶の葉盃などの形をおして切ぬき、十枚くらゐつつ一束にして売、天保に至て
は紙にて綱を切、売来れり、又短冊を竹に付て星祭するに、寛政の頃は武家にては庭に三尺許
の杭を二本立ならべ、それに結付て備へ、町屋は庭なきゆへ物ほしなどへ備へたるものなりし
が、追々に高くする事になり、武家町屋の差別なく長竿の上に結付て、高きを争ふようになり

江戸には七夕のための短冊を売りにきて、それを待望む風習があったのだ。それも一時の流行りではなく享保から天保、いや明治の初期頃まであったのかも知らん。それも武家や町民も楽しんでいた。

もちろん現在にいたるまで、青森、京都にかぎらず、地方にゆけば独特の七夕「星祭」があるのは知っている。でもそれらは今、この時期の何かしらの災害で、開催が阻まれているのではないか。

旧暦に基づき実施されるから、例年だと8月後半頃になる。無事開催に至っても、地域活性・復興のようなイベント色が強くなり、風情のない印象をもつ。杞憂だったら良いが・・。

先日、BSの宇宙がテーマの番組を視聴していたら、平安末期の歌物語、女流日記文学で名高い建礼門院右京大夫の歌がとびこんできた。

なにごともかはりはてぬる世の中に契りたがわぬ星合の空

この時代の無常観と、哀切なる人間関係の機微が重ね合わさり、夏が終わった秋口の、満天の夜空に託した歌を詠む。その行為および精神性が、なんて昔の日本人は凄いと、静かに食入ってくるばかりだ。

「なにごともかはりはてぬる世の中」という感慨は、いつの世にも、その時代を生きた人々に抱かせたのだろう。

まだ、書きたいことはいろいろあれど、日を跨ぐことになれば本意とならない。この辺にしておく。

▲いま何処にでも咲いている木槿の花。

▲木槿の花とアガパンサス(紫君子蘭)、この二つの花がセットになって何処にでも咲いている家が多い。なんか不思議だ。

▲食卓を晒すのは好みではない。自炊の毎日で、これだけをつくるにも手間がかかる。日を跨いでしまったエクスキューズであり、エビデンスということで、ここに載せる。(七夕を過ぎて、10分が過ぎる。実に不本意。窓を開け夜空を見あげれば、まずまずの下弦の月がみとめられた)


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