小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

何かを「つくる」ときに

2014年10月08日 | 社会・経済
 ノーベル物理学賞を3人の日本人が受賞した。誠に喜ばしいかぎりだ。
青色発光ダイオードという生活に身近な技術だから、私たちにもとても分りやすい物理学賞だ。
これまで素粒子とか宇宙の理論など、解説されても理解に及ばない。物理学賞のイメージは、お固く縁遠いものだった。
今回の受賞は、「ものをつくる」上で手先が器用な、地道な努力を尊ぶ日本人ならではの快挙であろう。

 さて、今朝の新聞はそんなノーベル賞一色であったが、「新聞広告最優秀賞」が社会面のベタ記事で紹介されていた。
 広告コピーを書いていたこともあり、関心をもって読んだ。
「食」をテーマに公募され、「命の交換」という作品が最優秀賞に選ばれたとのこと。
パックに入った卵の写真と、「あした、ぼくは、にんげんになる」というコピーで構成されているという。
 審査員から「人が命を食べて生きていることを、食べられる側から表現したアプローチが素晴らしい」と評価されたとのことだ。
 制作者の意図も「食べられる側の前向きな気持ちを、 日々食卓に並ぶ卵の意志で表現し」たとある。

 つまり視座を転倒し、卵側からの意志を代弁したコピーということだ。
ネットで実物をみたが、優しさに満ちたソフトなイメージで、「命の交換」という重いテーマを明るい印象で訴求している。
   
 とまれ、卵に意志はあるのか? 食べられる卵に前向きな気持ちがあるのか?
「命の交換」において、人間側が卵に提供しているものとはなにか?
 私はいちゃもんをつけるとか、粗を探そうというつもりはない。
他の生物に較べて、人間はやはり至上のものとする考え方が気に入らない。
「いただきます」という言葉は、食べられる側に対する感謝の気持ちをあらわすもの。
「いのちをいただく」という仏教的な生命観を反映したものだ。

 「ぼくは、にんげんになる」という表現は、かえって人間側の傲慢さがにじみ出ている感じがある。
 視点のユニークさ、斬新さだけで広告の賞を決めるのはよろしくない。

 最近のある薬品会社のTVコマーシャルでも、「煙草を吸うひとは病人」というコンセプトで作られているものがある。
 大きな病院には「禁煙外来」というセクションがあり、禁煙を何度も失敗した人には、患者として治癒されるべき医療行為が行われる。
 
「いまは病院で喫煙習慣を治す時代です、そのお手伝いを私たち薬品会社がお手伝いしています」
 そんな広告にも、喫煙者を病人あつかいにする、視点のユニークさが強調されている。
 しかし、そこにある種の驕り、思慮の欠如がないか。モラル以前の、忖度するあるいは惻隠の情がない。

 最近、井上芳保氏の「つくられる病」というちくま新書を読んだ。
副題に「過剰医療社会と正常病」とあって、医療機関や製薬会社が徒に健康不安を煽り、正常者がいつのまにか病人として「つくられる」実態を分析・研究した好著。

 ともあれ最近の、「つくる」側の傲慢さや勝手なこじつけが目に余る風潮に、ふつふつとした怒りを覚えるこの頃である。

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