小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

小さな正義・倒錯編1

2018年02月07日 | エッセイ・コラム

 

 

性懲りもなく「NEM流出事件」のことを書く。前回は「インフォマシー」なぞという造語をぶち上げて、仮想通貨に関する取材に関して揶揄することを書いてしまった。老い耄れの戯言に耳をかす人もいないだろうし、妄想の余勢を借りてさらに倒錯した記事をのこしてみたい。

まず、この事件では、最初にコインチェック側から事件の概要が発表された。まず疑問に感じたことがある。

時価総額580億円分がハッキングされた。企業として460億円分を補償する。時期未定ながら、現金或いは仮想通貨か明確ではないが、支払う予定だと表明した。これを受けての大方の反応は、「返却の期日はいつか」や「然るべき原資はあるのか」に集中されていた。

ここでいちばん注意すべき疑問点は、なぜ460億円になるのかということだ。

もし、この流出そのものが自作自演だと仮定したら、コインチェック側はなにもせずに120億円もの金額を、儲けたとは言わないが、浮かせたことになる。(この厳然たる事実を指摘したメディアはまだ確認していない)

自作自演はまさかと思いきや、かつて本家のビットコインでの80億円(?)の流出事件を思い起こしていただきたい。

つい先日、その事件のあらましは裁判で明らかになった。日本におけるビットコインの取引会社、流出されたとするまさにマウントゴックス社の若きフランス人社長が操作したことが判明した。(彼一人だけではできないと私は思っている)

今回の「NEM流出事件」。コインチェック側の発表では、外部の犯行であることの具体的な根拠はしめされていなかった。であるのにNEMのネットワークは、常時オープンの状態であったようで、セキュリティのハードルを意図的に低くしていたのだ。事件後、そのハッキングされやすい態勢そのものに顧客が驚き、指弾していた(一部は訴訟し始めた)。

そう実に、辻褄があわないというか、理不尽におもえてならない。

(一瞬のスキを狙った、北方の国家ぐるみの組織的ハッキングとの噂あったのだが・・、後述するように国際通貨への交換は無理だろう)。

▲荒波や富士を呑みこむ晴れのうみ(拙句)

ビットコインだけでなく多くの仮想通貨の特長として、知る人ぞ知る「ブロックチェーン」という仕組みが有名である。

個々の仮想通貨のすべてのデータが、誰にでも常時閲覧できる台帳に記録される画期的なIT技術。これは凄い発想で、ハッキングそのものが、通貨そのものにデータとして記載されてしまう。私からすれば「小さな正義」が発動されたからこそ、産まれたものだと再三書いてきた。

もし、どこかのPC端末に通貨(ネット上では暗号数字の束)を移送したとしても、その転記データそのものが、暗号として追記されてしまう(過去の履歴すべてのデータが書きこまれている)。「ブロックチェーン」はまた、分散された登記台帳ともいうべきもので、10分ごとに個別に取引記録が更新されていく。(この仕組み、および後述する詳しいことについては、ネットの仮想通貨入門等にあたられることを願う)

これらの記録はほぼ永続的に残り、その内容を全員が確認できるようになっている。ビットコインを持っている人だったら、いつでもチェックできるし追跡(traceability)することができる。しかも、共有し合える登記簿台帳、それが「ブロックチェーン」なのだ。(そのチェックは、実際には顧客の一部、殆どは業者におまかせだが・・)

つまり何が言いたいかといえば、仮にハッキングできたとしても、直ぐに発見されるし、他の仮想通貨と交換しても、その事実は瞬時に記録される。ましてや、現金で交換するなんて面倒なことをしたら、即刻逮捕される。

盗まれたネム(NEM)資金は取引所でしか換金できないので、タグをつけられた不正なネム資金は換金できない

だから、犯人がビットコインに精通していたら、まず換金したら身元がわかる、こんな割の合わない犯罪に手を染めるものはいない、と言っていいだろう。


「ブロックチェーン」とは、つまるところハッキングを未然に阻止する防犯システムなのだ。ただ、犯人は少なくともネットワークに入れる公開の鍵を持っている。ビットコイン所有者であり、本人であることを認証できるアカウント、つまりアイデンティティを証明できる実在の人物であることは確かなのである。

(1に信用、2に担保、3が交換、4に使用、5に流動。まだある、簡便、省力、低コスト(印刷費ゼロ!)6に安全・・。仮想通貨は国家を転覆するほどのインパクトがあるとしたら・・。)


ただ、抜け道、付け込むところ、無きにしも非ずなのだ。取引所の内部者だったら、ネットワークに侵入し仮想通貨の暗号を、というよりブロック(台帳)そのものの暗号データを操作することができるのではないか・・。

仮想通貨の流出を目論む人間がいたとしたら、たぶん内部の人間で最低でも3人、1人は外国にいなければならない、と私は考えるのだが、どうか。

マウントゴックスで流出されたとされるビットコインは、いまどこにあるのだろう。あの事件の後、国家間の軋轢に影響されたのか、ビットコインは3回も分裂した。そのとき既存のブロックチェーンに、どのようなデータ(暗号解読のためのアルゴリズムは変えられるか?)の改変はなされたのだろうか?

犯人はなぜNEM(XEM)を狙い、日本の取引所コインチェックだけを標的にしたのか(私の知るところ他に5,6社がネムを扱い、現在も取引されている!)。

ビットコインの流出と同じくまたしても日本で起きたが、それは偶然なのか? 

 

(日本人の仮想通貨に明るい富裕層、ネット関係者、およびアーリー・アダプター層(新しいものに目ざとく、すぐ飛びつくタイプ)たちが、最初のうまい汁を吸って、その余剰を他の仮想通貨に振り分けて、投資し始める。すると、彼らの「まんまとせしめたご馳走」がごそっと、誰かさんに持って行かれる構図がみえる。

もちろん、それは私の倒錯的な見方である。100人に1人ぐらいの確率で「億り人」になったらしいのだが、つまりは大半が消失の憂き目にあったのではないか・・。

5,6万円を投資した若い女性が2,3百万円ほど儲けた噂などが、巷ではもて囃された。不相応な勢いで、FXも買ったり、5倍・10倍ものレバレッジをきかして、何種類もの仮想通貨を買った。「欲望のインフレ街道」にまっしぐらだ。

いまは、その沈静化も見えつつある、2月7日現在)

 

 

 

古のむかし、「富」というものに私たち日本人は、独特の価値観をもっていた。財宝を持つとかお金を貯めこむことに罪悪感とはいえないが、なにかしら「穢れ(ケガレ)」のようなイメージを持っていたのではなかったか・・。

神社とは、ケガレを祓うことのできる神聖な場所である。

「祓う」は、「払う」という字を当ててもいい。

祓ってもらうときの道具を「みてぐら」といい、麻のところを「幣」と書くらしい。貨幣の「幣」である。金銭を神に払い寄進し、ケガレを祓うことの意味を噛みしめたい。

邪悪、不要・無益なものなどを取り除き、心を浄化するものと言われる。これも「裕福」になる、必要以上に「冨」をもつことの、ある種の歯止め、コントロール機能があった名残りであろう。

不当な富ではないにしても、ケガレを祓って身を清め、余計な富は寄進したのである。ある種の宗教的なイニシエーションである。仏教にも、キリスト教・イスラームにもおなじような慣習がある。余分な富は浄財として寄進され、聖堂などの建物を作ったり、芸術・文化の発展のために惜しみなく「富・余剰」は注がれたのである。

 

新自由主義と金融市場主義が隈なく世界に浸透したいま、そうした文化人類学や宗教的なるものに、まったく目を向けようとしない人が増えているのは何故か。共同幻想にもとづく分かち合いは崩壊し、優秀で頭のいい人たちが「個人」の「損得」だけを考えるようになった。

わたしは、そうした優秀な「個人」のみなさんの利害、損得、競争の果ての先に、ある種の「戦争」さえも厭わない感情、気分のようなものが生まれないか危惧している。

(少なくとも「排除の論理」をはたらかせている。でなければ、「取引」を「トランザクション」とか、「PC端末から端末へ」あるいは「ドア・ツー・ドア」と誰にでも分かるように表記すべきを、ワザと知る人にしか分からないように「P2P」(peer to peer)と表記するのは、知識をもち優秀な人がするべきではない。どんなに難解なことでも、開かれた記述に努めるべきであるし、そうした暇はないという者は、奢りと怠慢にまみれていると非難されても仕方がない。仮想通貨は、誰にでも未来に開かれた、理想に近い通貨であるべきなのだ)

 

本家のNEM(ネム)財団などについて書き足りないことがあり、この倒錯編は続けることにしたい。



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