小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

N氏の賢兄からの手紙

2016年02月12日 | 日記

  ★前回のブログに後記として添付するつもりであったが、長文になったので新たな稿としてアップした。


先日、故西野さんのお兄様、西野昭氏から鄭重なるお手紙をいただいた。

このブログについて好意的な文章が綴られていたが、西野さんの大学進学について若干の訂正があるという内容であった。
西野さんが学習院大学に入った理由を、そこで教鞭をとっていた清水幾太郎に師事する目的からだ、と私は書いた。これは偲ぶ会で西野家の次男である孝二氏からうかがった話で分かったことだ。
実は、清水幾太郎の学恩を受けんがため学習院に入ったのは、ご長男である西野昭氏本人とのこと。三男である故西野洋は、学習院出身である昭氏のアドバイスを受け、すべり止めとして受験した学習院に不本意ながらも入学したのだという。
40年以上も前のことだから、次男の方の記憶違いや勘違いがあったのだろうと、そこには(笑)の文字が記されていた。

どこの家族でもこういうことはよくあるものだ。葬式などで親戚一同が集まり、精進落しの席などで誰かが間違った記憶のはなしをする。するとすかさず誰かが訂正し「・・・そうか、そういうことだったのか」となり、全員が大笑いする。なにか小津安二郎の映画にあったようなエピソードで締めくくられる。

 

西野昭氏の手紙には、故西野洋が大学を辞してまでもデザイナーをめざす経緯が書かれていた。相当の決意であったらしく、ご両親の代理として昭氏が何度も訪問し説得を試みたが、西野さんを翻意させることはできなかったという。
その後のことは「お友達の方が詳しいと思います」と書かれてあった。故西野洋の遺品には、それでも勉学に励んだ大学時代の多くの講義ノートなどがあり、多くの書き込み、チェックの痕跡も認められたという。であるのに、何故?

 

何が、西野洋をデザイナーに向かわせたのか・・。
政治、思想、社会科学の対極ともいうべきデザイン・アートの世界へ、彼をインスパイアし突き動かしたのは何なのだろう。

 

ここからが私の勝手な憶測に属することになる。「取扱い注意」ということでお願いしたい。

当時、彼が学業以外にのめり込んでいたのは、何よりも音楽、ロックであった。60年代末から70年代初頭にかけてのミュージックシーンは、まさに「革命の時代」であった。

私はそのころのレコードジャケットを想起する。西野洋はあの時代の先鋭的なレコードジャケット群のデザインに触発されたのではないか。

ポップアートの巨星であったアンディ・ウォーホールも、ベルベット・アンダーグランドのジャケットをデザインした。レコジャケこそ、いわばポップアート革命の申し子であり、芸術表現の新たなメディアとして多くのアーティストが参画したのである。

 

もとより私の勝手な想像であるが、西野洋はレコジャケを端緒にして目眩むデザインの何かに啓示をうけた。そしてその奥に拡がるデザイン、タイポグラフィなどの世界に魅了され、デザイナーへの途に方向転換し、勇躍したのではないか・・。

その当時の西野さんをよく知るF氏ならば、そのバックグランドは詳しいだろうと思われる。そういえば偲ぶ会に、ロックバンドで西野さんが演奏している古いカセットテープ(これは貴重だ!)を持参したのは、Fさんだったらしい。(バンド名はなんと「バイオレット・クイーン」。私はN氏の沽券に係わる過ぎ去りし事と躊躇したが、妻は「それは考えすぎ」と、あえて公表することに積極的であった)

西野さんの超然たる転身の真相は、後々の楽しみとして取っておくことにしよう。今回のブログは私自身の憶測が存分に盛り込まれており、もし正確な事実・情報をご存じな方がいたなら是非ともコメントをお寄せいただきたい。これは西野家のご家族も悦ばれるものと確信している。

彼は死してなお惹きつけてやまない何かがある人だ。合掌

 

追記: あえて書くことでもないかと思ったが、やはり触れておく。前回のブログの冒頭の写真。彼のすらりとした薬指に、指輪が嵌められていたことに気づいた人はいるかとおもう。(妻は気づかなかった)
そういう方の存在が彼の身近にいたという事実。つまり音楽ではなく、彼が「如何にデザイナーとなりしか」という背景に、ある女性が関わっているとしたら・・。なんか私に、芸能雑誌で書くようなノンフィクションライターの好事な魂が乗り移ってきそうだ。いかんな。再び、合掌。


 

 


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