小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

家の中の自然について

2017年06月04日 | 日記

 

新聞に「猫学事始」というインタビュー記事があった。3人の猫好きの識者に、猫をどのように考え、接しているかきいている。作家でパンク歌手の町田康の記事にひきつけられた。

「猫はかわいいんじゃない、美しいんですよ」という。

猫はそこに「いる」だけである。「人間側にとっては、人工物ではない自然が、家の中にすんでくれるということです。猫の美しさって、自然の美しさ」。この「自然」は「撫でさせてくれたり、ゴロゴロしてくれる」。猫はいたずらをしたり、生活の支障をきたしたり、大切なものを台無しにしたりする。「人は生きていること何かしら耐えなきゃいけないことがある」が、猫の「フリーダム力はすごい。束縛されていない」から何かに耐えることはないのだろう、と。そんな姿は文句なく美しいに違いない。

しかし、この「自然」は「危険さや大変さ」があり、「そこには死ぬことも含まれる」という。「かわいい」と思って飼いはじめる人は、このイノチの大切さ、美しい「自然」を飼うことの大変さや儚さを知ることができるだろうか。7匹の猫を飼っている町田康は、まったく警告とか咎めるようなことは言わない。が、「かわいい」だけで猫を飼うのは惜しいですよ、そんな呼びかけをしているに違いない。

▲近所にいる通称「ツナ吉」。基本は野良だが、冬はどこかに居候。喧嘩強し。

わたしも実のところ、家で猫を飼いたい。が、妻はそれを許さない。「死ぬときを想像する」から「NO」なのである。

まだある。家に人間のいう事をきかない「自然」が2匹いるからだ。ただし、あまり美しくない。可愛いところもあまりない。淡々と生きている。

飼い始めたのは妻で、動機は「可愛い」からだった。最初4匹いた。10円玉くらいの大きさ。このときの写真がなぜ残っていないのか。4匹はともに必死の感じで、悠然として生きる亀のように見えなかった。外に出すとすぐに部屋の隅に逃げ隠れた。そのときは、やはり可愛かったな。

緑亀とくさ亀。それぞれ2匹。わたしのミスで死なせてしまった。生き残った亀はそれぞれ1匹ずつ、別々に生きている。たまに一緒にしても、喧嘩もしなければ挨拶もしない。30年近くも元気に生きている。冬の季節になると、この2,3年は古いセータにくるまってずっと眠ったいる。

▲右が「いくら」、ミシシッピアカミミ亀。左が「しめじ」、くさ亀。いまだに反抗的。

   

▲寒い時は、ほとんど動かないのだが。


追記:町田康氏ともう一人、哲学者左近司祥子(さこんじ)の「哲学と猫」についても考えさせられた。人間との関わり、他者としての認識について思うところあり、次回もこのネタで書きたいと思うのであるが・・。

 

 


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