小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

猫と、哲学する

2017年06月05日 | 日記

 

 

前回記事より続き

 ▲6月3日・東京新聞「猫学事始」より

 

左近司(さこんじ)祥子という哲学者を知らなかった。専門はギリシャ哲学だが、猫に関する著述も何冊かあるらしい。東京新聞(※)の「猫学事始」という特集記事がなければ、この方の存在は知らぬ存ぜぬで過ごしていたことであろう。

この哲学者の家には37匹の猫が暮らしているという。以前は50匹ほどがいて、ほとんどが捨て猫だったという。その同居がたいへんだとか、苦しいだとかの話はまったくない。

家のなかに何十匹もいる生活は想像を超える。食べ物や排せつなど世話のことを考えると、経済的なことふくめて現実そのものが怖い。猫には臭いがないというが、猫まみれの空気に包まれるのはどうだろうか。私は世俗にまみれた生活をしているから、そんな下世話なことぐらいしか頭に浮かばない。

ともあれ、たくさんの猫に囲まれて哲学することの意味を、記者は根掘り葉掘り聞きたかったはずだ。


左近司は「猫は宇宙としか対峙しない」という。(どう意味というか、概念あるいはその状態をイメージできない。)しかし、猫は本来「人間なんか相手にしてやらないよ」と思っていて、「人間なんかいなくても、自分の好きなところに行って好きなことをする」。(これは、私でも理解できる。つまり唯我独尊か。)

「人間は共同体の中でしか生きられない」から、「私」という存在は、その共同体との「間」で悩むことになる。

私見だが、ソクラテスは、人間は共同体にいないと生きられないが、関わることは拒否しろと言った。つまり、つかず離れずということ。しかし、ソクラテスは青年たちを思想的にミスリードしたという罪で、属する共同体の政権から死刑を宣告された。(※追記)ソクラテスは法律を尊ぶことが根本だとして、その罪を甘んじて受け入れ、毒杯を自ら飲み干した。そこに哲学する淵源があるのか・・。

「猫のように生きることができれば、哲学は不要になります。残念ながら人間は猫ほど賢くないので、考え続けるしかありません」、と。難しいっちゃ。実際に、猫といっしょに戯れて、哲学してみたい。猫のいる家に行くと、不思議にも私に寄ってくる。嫌われた経験がない。とにかく、左近司祥子さん、彼女の本を一冊は読んでみたいとおもった。


猫と対峙する哲学者を知っている。アルジェリア生まれのフランス哲学者ジャック・デリダである。晩年には、人間と動物との政治を考えていて、動物にも「主権」の概念を持ち込もうとしていた。彼が飼っていた猫の名前は、ローマの詩人哲学者のルクレティウスの名がつけられていた。(「物の本質について」を書いた、紀元前50~100年くらい。厳密かつ韜晦、凄い!)

有名なエピソードがある。浴室でその猫がデリダの裸を見つめていた。そのとき、デリダは羞恥心を覚えた。と同時に、恥じている「自分」を恥じた、と。

動物愛護の話どころではない。一個の主体として「動物」を意識している。猫も、人間も「動物」である。同等として存在しているから、人間=動物=政治という概念がうまれるのであろうか。

▲晩年の頃か。「死を与える」という本にも使われていた。風貌が哲学している。


私は哲学が嫌いではない。プラトンはよく読んだ。ルソーも好きだ。しかし、現代哲学はわたしの頭ではついていけない。たとえば、概念と、もうひとつ別の概念で思考する作業ができない。ニーチェは分かるのだが、突如、概念と観念と理念がごちゃごちゃになることがある。唯我独尊がまるで神状態の意識になる。私はどうも駄目でついて行けず、世俗的人間として落ち込む。

デリダも数冊もっているが、結局放棄した。現実の何ものかに置き換えるとか、還元してもらわないと、訓練されていない脳髄では、理解不能に陥ってしまう。自意識というものが「他意識」にすり替わる、この認識さえ難しい。ただ、彼の行動、人前での言表は理解でき、たいへん刺激的である。

元に戻そう。猫に対峙する。猫に対して恥ずかしい。その恥ずかしい自分が恥かしい。あるいは裸の自分が恥かしいのか。デリダの愛猫ルクレティウスは、雄か雌なのか。猫は裸ではないのか。猫は裸でいることを恥じない、それが当たり前だからだ。動物はみな裸だ。裸であることを恥じらない。人間はなぜ恥じる? 人間は動物ではないからだ。駄目だ、こりゃ。


西欧人の独特の思考法、他者認識、他者感覚になにか違和感がないか。

京大の人文系教授・会田雄次の「アーロン収容所」(中公文庫)という著書があった。「西欧ヒューマニズムに対する日本人の常識を根底から揺さぶり、西欧観の再出発を余儀なくさせ、さらに今日の日本人論続出の導火線になった」と裏表紙に印刷されている。とはいえ、出版は昭和37年であり、著者が終戦後から約2年間、ビルマ(現ミャンマー)のイギリス軍収容所での経験を書いたものだ。過去の遺物と言いたければそれも良し。 

この本において物議をかもしたのは、西欧人とくにイギリス人、アングロサクソンのアジア人種への差別意識、他者感覚だった。会田は捕虜として様々な体験をするが、女性兵士から受けた屈辱が印象的だったと記す。足や顎で指図するのは分かるとしても、女性が全裸でいて、著者が目の前にいても平然としている。著者だけではなく、同様の例が数々と紹介されている。

「彼女らはまったくその存在(日本人捕虜)を無視していたのである」

「かれらの絶対的優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちを使うとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気をすうようななだらかなやりかたなのである」

 

イギリスはじめ西欧の列強国は、アジア、アフリカ諸国を次々と植民地化した。彼らはそれらの人々を有色人種として差別し、人間として扱わなかった。だから侵略し、反抗するものは虐殺し、従順なものは奴隷化した。西欧人は有色人種を人間として見做さなかった。

ヒューマニズムは西欧で生まれた概念だが、その植民地政策、人種差別の歴史をみるかぎり、西欧社会の根底的な反省がなければならない。また、ユダヤ人へのホロコーストも然りで、キリスト教社会がうみだした根源的な差別、排除の思想を告発したひとりに、ジャック・デリダもあげられる。

デリダは西欧社会の言語構造、思考の制度・設計にいたるまで告発した、のように思われる(詳しくは分からない。情けないが、確信がもてない)。有色人種を動物として見なせば、足蹴にすることも蹂躙するも平気だ。自分が全裸でいても、動物が目にしていても恥じ入ることはない。神の子である人間は、何をしても赦しをえられる。

植民地主義と人種差別が浸透し、自らの人間性を動物よりも一段高い存在として思い込んだふしがある。それは驕慢であり、動物の前でセックスしているところを観られてもなんとも思わない驕りとなる。デリダはその西欧社会の人間性に、どうしようもない欺瞞があることに気づいた。

デリダが晩年、「人間=動物=政治」(正確には「動物性の政治と倫理」)という概念をもちだしたのも、西欧社会への痛烈な批判があったからで、西欧流ヒューマニズムに決定的な駄目だしをする目論見があったからであろう。


いやあ、猫のお蔭で、この2,3日、哲学する老人になった。これから徘徊して、路地裏の猫をみつけに行くことにする。


▲こんな本もあった。理解できるか不安だ。



(※)最近、坪内祐三の自伝を連載しはじめた(今日で最後だった、失礼)。経堂とか下高井戸あたりが地元らしく、今のところ世田谷の昔の話が中心だ。良いところのお坊ちゃんだということは知っていた。幼児のときではないが、子供のころに母親が亡くなったこと、洗礼をうけてクリスチャンになったことを初めて知った。こういう話は、信頼のおける媒体でないと書く気は起きないと考える。東京新聞は、いろいろと頑張っている。元官僚トップの、出所の不公正な下ネタを鬼の首を取ったように喧伝させようとする一流紙に比べると、雲泥の差を感じてしまう。

 

(※)追記 青年たちをミスリード(堕落させた)ことで死刑が決定的になった(当初、「殺人罪」と書いていた)。本来は、当時の国家公認の神々を否定したことが根本理由だろう。ゼウスさえも、その存在理由を否定したからだ。今となれば、当たり前の科学的な理由を言っただけだが、当時の体制からすれば存立基盤を揺るがす事態だった。7月15日記


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