小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

誰か真実をさけぶものは・・

2015年04月20日 | エッセイ・コラム

 

真実は一つではない。そのことを私たちは経験的に知っている。たとえば、あるモノを下から見る、上から見る、ときに斜めから眺めることによって、その「モノ」の違った面や新たな発見がある。これらは別の、もう一つの「真実」であり、それを知ることによって、私たちの考え方とかものの見方を深めたりする。また、時間つまり歴史という概念を取り入れたりすることによっても、私たちは新たな真実を知ることができる。

もっと身近なことを紹介すると、BSドラマ「植物男子 ベランダー」で主人公がこんなことを言っていた。

「考えてみれば、花は太陽の方を向いている。部屋から鑑賞する私は、そっぽを向かれているんだ。ベランダの花の裏側しか見ていなかったのだ!」

 

戦前、信濃毎日新聞の主筆に桐生悠々という叛骨の人がいた。彼がこんなことを書いている。
多くの人はラジオを聞いて楽しんでいるが、私たちはこれを耳にすると戦慄する。(略)ラジオそのものが、既に神秘で恐ろしいものに加えて、ラジオの伝える内容が、政府によって統制されているから、私は更にこれを恐れる。
何故なら権力の所有者たる政府は、これによって、久しからずして、大衆の思想を、感情を、産業がその生産物の規格を統一しつつあるが如くに統一するであろうからである。そして、大衆は、政府の欲するがままに考え、また感ずる以外に、考えたり、感じたりすることができなくなるだろうからである。遇他から異なった思想や、感情を放送するものがあるならば、統制者は途中で、その音波を乱してしまうからである。」(「畜生道の地球」より)

 

長い引用で申し訳ない。地方新聞とはいえ、かつての新聞人はこれだけの気骨ある文章を書き残したのである。
これに比較すると、最近のマスコミの言論は、どうも自主規制とか、官政誘導による記事が多いような気がすることしきりだ。
自由と真実を叫ぶ。それが新聞記者であり、マスコミの使命であろう。ある意味でマスコミで禄を食むものは、地位とか名誉など擲つような自己犠牲の精神がないと務まらない過酷な職業だ。
自己保身や安逸な立場主義が横行しているようでは、マスコミは早晩、自業自得の閉塞した状況に陥るしかないだろう。

なぜこんなことを書いているかというと、ビデオニュースで古賀茂明の外国特派員協会における会見を見た。
今回の件について多方面からいろいろ言われているようだが、彼は真っ当であり真実を述べる人という印象をもった。
例のテレビ朝日の報道番組「報道ステーション」における降板劇。その事実関係において、巷間伝え聞くものとはだいぶ違う。
これについてはあまり関心ないのだが、ある重要な事実をこの会見で披瀝していた。

それは政府系金融機関である「政策投資銀行」と「商工中金」は、民主党政権だったときに民営化されることがほぼ決定されていた。ところが安倍政権になっていつのまにかその計画が立ち消えになったという。
以前は民間出身の経営陣で占められていたが、いつのまにか官僚出身者で固められ、体のいい天下り先になったらしい。

古賀氏はこの事実を知ったとき、官僚時代の友人やテレビ朝日ほかの幾つかのマスコミ関係者に事実関係を確認したり、その感想を尋ねたという。
彼らの反応は一様に同じであり、それは色めき立つよりむしろ無反応だったというのである。
政権批判を続けて、その結果、政府の圧力をうけた事実を弾劾する。そのことよりも、古賀氏は報道する側の姿勢つまり真実を追求するものとしての責任、矜持を問題にしたかったようなのだ。
わたしは番組内での古賀氏の発言・パフォーマンスを知らない。しかし、昨今のマスコミ人の自己保身や無批判性について、誰かが指摘しないといけないと強く感じていたところだった。

自分たちに都合のいい真実だけを報道していれば、やがて信頼を失い、人々にそっぽを向かれる。安楽な仕事を選択してはいないか、マスコミ人は不断の努力、自省が求められている。
桐生悠々は権力に屈したことはなかったし、圧殺されることもなかった。
不遇であったかもしれないが、晩年は釣り三昧の「悠々」たる人生を全うしたのである。

 

▲真実を描いた画家アルベレヒト・デューラーの「西洋菖蒲」。 


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