小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「優秀」な人は、なぜ愚かなのか

2017年12月11日 | エッセイ・コラム

 

手話交流会に向けて、わが家で秘密特訓をした。そのあとの心地良い疲労感なら良かったのだが、むしろ徒労感、自分の至らなさや課題がわんさか見つかった。で、なかば意気消沈、自己幻滅の残像がまだ消えぬなか、NHKスペシャルを見てしまった。

「追跡・東大研究不正 ゆらぐ科学立国日本」という、いかにもNHK的な不正糾弾・事実究明型のドキュメンタリー。以前「スタップ細胞はあります」というお嬢さんの事件を追及した時、週刊誌的なつくりで悪評を買った同番組である。今回はまあまあ、事実関係を淡々と解明する姿勢が打ちだされ、同様の事件に手を染めた人物から貴重な証言を得たりしていた。それにしても、最高の知性を持つ人たちが何ゆえに、一生を棒にふるような愚行を犯すのだろうか。

世の中の不正に怒りを覚え、得体のしれない不満をブログに書きたい私にとって、この手の番組は格好のおかず。単に表現欲求を満足させるだけに終わらないように、日頃から注意を心がけているのだが・・。小説を書くとか、優雅な趣味にひと時を過す余裕と才知がない私にとって、ブログで書いてみたい最初の動機とは、究極的には何かへの怒りだった。それは何に対する怒りなのか、自分でも未だに分からない。

「××さんの書くものって、なんか学者的ですね」と、先日言われてしまったが、実は身を引き裂かれるほど恥ずかしきこと。お世辞のつもりだったのだろうが、学者の「優秀」さの胡散臭さを、私がどこかしら醸し出しているとしたら居たたまれない。

たぶん私には「優秀な人」たちへの劣等感があるのだろう。「優秀」であるからこそ、高収入を得ているというヤッカミ。その単なるいやらしい僻(ひが)み根性が染みだしている、としたら目も当てられない。


いやいや最近、畏敬する安冨歩(アユムからアユミに改名した)先生のご高説(※)に得心したせいもあった。先生曰く「『優秀』な人が集まるとなぜか愚かなことをする」という説を、このNスぺ番組は、まさに実証してくれたようで嬉しい限りであるのだ。

まず「優秀」な人は、「記号操作に長けている」ということ。この世界は記号でできていると仮に設定して、これらの記号をうまく操作する、時には誤魔化すことできる人が、「優秀」であると見なされる。

これの意味するところは何か・・。記号を言葉で置き換えてみると分かりやすいか。言葉という記号をうまく使うことができる人は、頭が良く優秀ということで、多くの人々から信用を得られる。そうやって言葉をうまく操作できる人たち・・。

そんな「優秀」な彼らを、政治家と定義してみたらどうだろうか。「誤魔化されないように、彼らが吐く言葉に耳を傾けねばなるまい」と想像するのは、私だけではないはずだ。がしかし、私たちは、世界でも注目を浴びる科学者に対して、政治家と同じような視線を向け、語る内容をチェックできるだろうか。

安冨先生によると「優秀な人は、記号操作でほころびを誤魔化す技を心得ている」という。「優秀な人は愚かだから、集まると相互作用でさらに愚かになり、とりかえしのきかない暴走がはじまる」とまでいうのだ。

私たちが生きるこの世界は、確かに記号なんかで出来ていない。森羅万象、物事の生成、変化、消滅について、この世界を言葉で、論理的に語ることはできない。ウィトゲンシュタインではないが「語り得ないものを語ることはできない」のだ。

世の中には言葉で語り得ないことの方が多いにも関わらず、「優秀」な人はつぎつぎと耳心地のよい言葉をならべ、人々を信じ込ませる。今はもうさすがにそんな単純な時代ではなくなった。が、学界というところでは、一般の私たちには理解の及ばない様々な「記号」が駆使されている。

NHKスペシャルの話に戻そう。今年8月、分子細胞生物学研究所(分生研)の渡邊嘉典教授が発表した不正論文事件を中心に、最先端の科学者がなぜデータを改ざんし、研究費を不正に獲得しようとしたかを追及した特番。その背景には大きくは二つの理由があると分析された。

まず第一が、「競争原理」の導入。ゼロ年代以降、元小泉総理の時代に「競争原理」という科学の基礎研究にはふわしくない「しばり」が導入されたこと。地道な研究を積み重ねることよりも、速い結果や評価だけに心を砕くようになる。結果を出せない研究チームは淘汰されるという、科学の分野には相容れない研究者同士の競争が提唱され、なんと「市場原理」というか「勝負原理」が導入されたのだ。

次の大きな原因は、有名科学雑誌における論文掲載をめざす異常なまでの野心が、サイエンティストの魂に芽生えたというか、巣食いだしたのだ。

『NATURE』や『SCIENCE』などの世界的な科学雑誌に論文が掲載されると、その研究内容は確かに世界的な評価を得、注目を浴びる。研究成果やデータが、次なる論文に引用されればされるほど箔がつき、認知度は上がる。

その結果、論文が掲載された研究者及びチームは、国家機関からの補助金や企業からの多額の助成金を得ることができる。この公式をうまく使おうとする研究者が、もし「優秀」ならば何をするか。実験データやエビデンスになるべく画像データという「記号」を操作しようとするのではないか。「記号」を操作することで何十億、何百億円という研究費がもたらされる現状。魔がさして、改ざん・ねつ造という「愚かさの暴走」にのめり込むことはないだろうか・・。

▲今年の夏の終り、ブリューゲル展に行った。『金銭の戦い』(1570~72)、人間の強欲、蓄財、私欲を暴露して笑った。現代においても内実は同じか・・。

 

問題は、科学の分野に限らない。「優秀」な人たちは、あらゆる分野に、世界中にいるという峻厳な事実。そんな「優秀」な人たちが集まって、世界の「記号」を「操作」し始めると、「愚か」なことに陥るという大きな罠。「愚か」は暴走すると、愚かな「対立」から「戦争」へと至るという道筋である。

「記号」は政治の世界だけでなく、科学にも、宗教にも存在する。そして「優秀」な人たちが、次々と生まれてくる。たまには馬鹿げた、「愚かな」コントでも考えてみようと思う、今日この頃である。

今回の私の「怒り」は、「愚か」だろうか、それとも「痛い」のだろうか。

 

 

(※)安冨先生の講義の一部がyou tubeにあった。

 

 


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