小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

厚顔無恥とは

2020年03月10日 | 日記

参議院予算委員会のやりとり、そのラジオニュース(TBSの「荻上チキ・Session22」)を聴いて、どうしようもない脱力感を抱いた。安倍首相と森法務大臣の答弁にともかく驚愕し、やりきれない感慨に至った。

 

二人とも、質問する議員を実質的に無視していた。人格、存在そのものを含めて。さらに、問われたコンテンツそのものを鹿十していた。(原稿を読むような答弁は、それを文案・作成した官僚もまた、その時点で質問趣旨を鹿十したのだが・・。)

件の二人、首相、法相はかつて、或る日を境に厚顔無恥になることを恣意し、それぞれの動機、個人的な背景のもとに、コーガンを醸成したと思われる。(安倍首相のそれは、最初の総理の時に厚顔になることの「壁」を直面し、そのことで生存本能いや胃腸が自壊して辞任することになった。それこそが、コーガンを克服する転轍点になったのだろうか・・)。

いずれにしても、両者ある事を契機にして変わった。少なくともコーガンの決断こそが国民国家の為になることだ、と決意したはずである。であるからには、ムチであるはずがない、そうとしか思えないほどの答弁いや強弁に 貫徹した。

森法相については詳らかにしないが、同様のモチベーション、経緯があったのではないか。そのことを慮れる、硬直した答弁に終始した。現状の課題こそが問われているのに、20年以上前の関連事項を滔々と述べられた。コーガンを超えて、もはや鉄面皮なのか。

そうなのだ。質問者が誰であっても、二人は同じ振る舞いをしたであろう。政治に疎い素人でも、そう見極められるコーガンムチの言表であった。

厄介なものはまだある。こうしたやりとりを報道するジャーナリズム、受けとめる国民も、そのほとんどが厚顔無恥を決め込んでいる、なかば無意識のなかで。

いま、新型ウィルスに端を発した諸々の課題・システムが軋み、コーガンムチの音をあげている。どうしたものか。


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