鎌倉の中秋の月は満月、十六夜、立待月とほとんど雲に隠れていて、夜半にやっと顔を出す程度だった。
それでもわずかに雲間に顔を出した一瞬は、神秘的な虹色の月暈を見せてくれた。
ーーー光ごと月を抱きてうねる雲ーーー(旧作)
(中秋の満月)
古今東西を問わず人々は天に孤絶の美しさを見せる月を神格化して来たが、物質文明下の前世紀にはその信仰も薄れてしまった。
しかし無信心無宗教でただの物質として月を認識するよりは、月読命やセレーネ(ルナ)を想起する方が人間性に豊んだ生活だと思う。
3日粘って薄の上に掛かった月が撮れた。
(居待月)
現代人が失ってしまった日常の中の宗教的な祈りや哲学的な思索の時は、今思えば精神の充足には掛け替えない物だった。
よって現代人の精神生活の為には新たな神を創出するしか無く、今世紀の小説や映画では多くの神話的な作品が創られている。
月を祀って小祭壇を設け花や灯明を献げれば、そこに自ずと清浄な結界が生まれる。
簡素ながらも心静かに何かを祈る場所や時間を作れば、現代人の即物的生活も少しはましになるだろう。
(月天 奏楽天 中国人形 20世紀中頃)
隠者の地味過ぎる部屋には、華族風の月天と奏楽天を賑やかに祀ってみた。
御供物は兎型の栗菓子だ。
現代知識人に唯一絶対神は不要だとしても、穏やかな自然信仰は四季の暮しをより楽しくすると思う。
©️甲士三郎