鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

114 婆娑羅の茶

2019-11-07 14:41:01 | 日記
我家の先祖書を見ると佐々木源氏の流れとなっているが、直系は婆娑羅大名で有名な佐々木道誉の後に途絶えていて、江戸初期の徳川家臣団の箔付に系図買いされた物だと思う。
道誉ら婆娑羅一党は闘茶 連歌 立花に歌舞音曲などの宴を連日催していたので、私の喫茶に句歌、投入花などの遊興も婆娑羅の血筋と志を一応形式的には継承している訳だ。
まあ当時の闘茶連歌の宴は到底行儀が良いとは言えないが、当代一流の文武に秀でた武将達が揃っていたのだから、知性品性はそれほど低くはなかった筈だ。
当時は古来の王朝公家文化が形骸化し低迷していて、新しい武家文化を創り出すには婆娑羅的な自由さや破格の力技が必要だったのだろう。
そういった婆娑羅武将達の気風が後に形となり具現化したのが織部の沓茶碗だ。


(鳴海織部沓茶碗 桃山時代)
白い波模様と歪んだ口縁が歯を剥き出しに呵々大笑しているような、豪快な鳴海織部の抹茶碗だ。
赤と緑と白の色彩対比が個性的な絵と形に相まって、強い視覚効果をあげている。
桃山織部の沓茶碗は轆轤でちゃんと円形に作った物を押したり引っ張ったりしてわざわざ歪ませ、古い時代の侘び寂びの概念に生き生きとした躍動感を付与し簡略な絵付模様によってコミカルな楽しさを加えた。
この破調の美こそ婆娑羅茶の最終兵器であり、捻くれ者の隠者にはこの手の歪んだ沓茶碗が良く似合うと自負している。


(我が書院の茶席)
鎌倉〜室町時代の茶礼は板間に敷いた円座に胡座の武家礼法で行われていて、畳に正座の作法は幕末〜明治の末流茶道からだ。
婆娑羅茶は闘茶の賭事と大宴会のイメージが強いが普段はもう少し大人しい書院の茶で、千利休以前のこの書院茶こそ我が手本とすべき原形だろう。
貴族文化が寝殿造りなら武家文化は書院造りで日々の暮しを楽しんだのだ。
それらを踏まえて我が隠者流の喫茶は脇息 座布団(時に座椅子)に胡座手前で、更には抹茶ラテかカフェラテならどんなに手前勝手だろうが誰も文句は無いだろう。
また書院の茶席はそのまま書見執筆にも使えるのが茶室より便利な所だ。


(野点用の黒織部沓茶碗 江戸時代)
古織部には珍しい小服の旅茶碗で普段はこの黒織部が最も使用頻度が高く、夏場はゼロコーラにまで使用している。
儀式には両手持ちの茶碗が威厳があって良いが、現代の日常生活には片手で持てる小振りの茶碗の方が何かと重宝ではある。

晩秋の枯野での一服は、戦国武将達の陣営での生死一如の茶事を思い起こさせる。
戦乱の時代の陶片に乗せた饅頭は、糖類禁止の私の口には生涯入らない貴菓である。

©️甲士三郎

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