オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

経験の差は、知識や偏差値を葬る

2022-09-16 10:50:27 | 身体障害者でも、介護と看護の日々

 

 いまや、ツイッターやなにやらのSNSによる書き込みや発言の多くが、AIロボットを使った偽人間の発するものだったりは当たり前の時代。

 ニュースや記事に対する書き込みや、読者のコメント・感想にしても、同じようにAIロボットに反応させて瞬時に書き込みをさせてみたり、各種のアンケートや統計にしてもAIロボットが都合の良い回答をしていたり、それで総数を調整し、そのうちの何パーセントは常にAIロボットに回答させるとか、色んなことがメディアでは自在に出来るようになっていることを、皆さんは知らないんだろう。

 AIロボットの集団に、皆さんはそそのかされて、煽動されて、踊らされている。

 それを知らない愚かな人たちは、批判したり文句を言ったりして踊ってるが、相手はロボットだという事実を知れば、どうするんだろうね。

 ここは、笑っていいところだ。

 癌の手術だって、AIロボットがすることもある訳だから、よくよくメディアの裏側を考えるべきだ。

 喧嘩を売って来て、言い争う相手がロボットだった、馬鹿な話さ。

 

 日銀や財務省が、行き過ぎる円安に介入して対応するとかほざいているが、世界のギャンブラーは手ぐすねひいて待っているだけの話で、短期的には円高に振れたとしても、がっつり飲み込まれてしまうだろう。

 こういう間抜けな連中が中央銀行や政府にゴロゴロいる訳だから、旧統一教会に染まっていないのも居るとは言っても、どっちもどっち、お里は知れている。

 日本とは、そういう哀れな国だと、国民は肝に銘じて、自分たちの日々と未来を、自分たちで考えて生きて行く癖をつけることがナニよりも肝要。

 国家は守ってはくれず、万が一に国家は滅びても、民はそこで生きて行かなければいけない、これが大事。

 俺はガキの頃からそう生きて来た。

 

 美談や英雄談、成り上がりや成功物語には、ワザと語らない、隠して見せない悲劇や、陰湿な残酷話や創作詐欺は、必ずと言ってもいいほどたくさんある。

 キレイごとの表の部分だけで、スターや英雄になっているのは勝手だが、嘲笑して距離を置いて見ている者もいる。

 しょせんは消費者誘導、奴隷管理、利益搾取の仕組みだから、二匹目のドジョウなどいるはずもない。

 最初から作り物の大メディアを使って煽っている話なんて、すべてが作り物で終わってしまう。

 銀座の小料理屋の女将や、高級クラブのママ連中の、夜と昼の顔の激しい違いを知っておれば、酔って口説く気も失せるのと同じ話だ。

 有名芸能人らのチンチクリンさや、政治家先生のドブネズミのような夜走りや、世に言う著名人やスターやらの日常生活の間抜けな姿を知っておれば、メディアに振り回されることなどナニも無い。

 

 コロナ騒動で大メディア群に毎日登場しておった珍獣博物館の陳列物とも言える専門家や政治家や医療関係者たちは、そろそろお払い箱になりつつある。

 そんなチマチマした話題作りや詐欺に加担するような民衆・視聴者もまた、お払い箱の中に放り込まれる。

 無駄な時間、無駄な喜怒哀楽、無駄な行動、こういったモノを大量に作ることが資本主義の要諦ならば、最初から無視を決め込んで、自分の生の時間に専念しているに限る。

 俺は、そう生きている。

 

 大腸癌があちこちに転移してステージ4の称号を頂いていた身内の患者が、半年で癌を消してしまい、直腸癌で閉塞が酷くなってきた爺様には大腸ステントを勧められていたんだが、これもオストメイトを拒絶したのと同じように、試行錯誤をした挙句に、現状のまま、消化の良いモノを喰い、今まで通りの生活を続けることで延命を図ることになりそうだ。

 現状の、日本でのトップクラスの大病院を渡り歩いても、新しい知恵は出てはこなかった。

 基本は自然に、余計な薬や医学の世話にはならず、ごく自然に生命を全うすること。

 笑いの絶えない日常で、明るくおおらかに過ごして終わりを迎える。

 俺自身もオストメイトだが、健常者よりも早く排便は済ませるし、毎週のように高い山に登り、海で遠泳し、一年中温水プールで泳いで、セックスも出来る。

 なにも変わらない日常を送れるのは、なんでも自分で出来て、器用でグタグタ神経質に考えない性癖のおかげ。

 二つの病院から共に紹介された大病院に爺様を連れて行って来たが、振出しに戻るではないがステントの話をしていると、いずれはオストメイトにするしかないという結論になっていた。

 これを高齢者に今からやれと言っても、簡単にはいかないだろう。

 90歳にもなると、1週間の入院でも認知症が再発するリスクの方が高い。

 田舎の広い実家を片付けて、売却し、銀座から歩ける場所に引っ越しさせて、この1年で毎日の会話だけで認知症を治して見せたことが、すべて無駄になることになる。

 外科医は患部の手術を成功させれば終わりだが、日々のケアは自分たちでするしかない。

 訪問看護や公共のケアのサービスがあるからと簡単には言うが、現実はオストメイトの装具ひとつとっても輸入品ばかり、専門分野以外の現状のことをナニも知らないエキスパートのアドバイスは、なんの役にも立たない。

 どこの大病院でも、退院後の話になると、俺の方が詳しくて、ベテラン専門医でも言い負かしてしまう。

 これが縦割り社会の弊害か、人間のことを全体として見る癖がまるで無い。

 良い外科医とは、切って削除してくっつけて、その退院後のケアについても解りやすく話せる医者のことを言う。

 温和で楽しい日常まで、キチンと筋道を立てて話が出来る医者や医療関係者なんて、いないのかも知れないね。

 ダメだね。

 素人の患者の前で、小難しい専門用語や専門知識をひけらかしてるような医者は、クイズ番組で東大や京大の卒業生だとほざいてる猿とおなじことだ。

 役立たずの馬鹿、この一言でカタがつく。

 医者や薬屋や関係者たちは、もっと人間の日常全般のお勉強を、経験を積んで身につけるしかないだろう。

 

 ホンモノが道を歩くと、偽物は脇に避けていたって、その胡散臭いボロが出る。

 堂々と、笑いながら道の真ん中を歩いて生きて行ける自分を、絶え間ない日常の努力の積み重ねで、身につけた者の方がはるかに豊かな生の時間を満喫できる。

 これは知識や偏差値で身につく安易なモノではない。

 簡単なことなんだが、なかなかね。

 

 今週末の山歩きについて、天気図を描きながら考えているが、これもまた、難しい。

 天気や空には必ずや隙間が出来る、そこをピン・ポイントに見つけるのも、楽しみではある。

 


ダイダラボッチに、コロボックル

2022-09-14 10:08:17 | 神々の話

 

 旧統一教会の話は、いまさらな話題で、30数年前の不動産バブル時には、すでに日本の三権に深く入り込んでいるイエズス会並みの宗教団体ということで、われわれの間では有名な話だった。

 アメリカの政界にも深く介入して、ワシントン・タイムズなんかは傘下と言っても良い。

 いまさらな話題を、ワザと解り難くするような報道が混乱しているが、もとは簡単な話だ。

 日本を、乗っ取り損ねたドジな宗教団体、そういうことだ。

 

 ウクライナの東部ハリコフから、ロシア軍が撤退しているというニュースで、撤退・敗退と書いている間抜けなメディアは、原油も天然ガスも無い極寒の冬を前にして、マッチ売りの少女になって行ってる。

 ロシアの軍事力を持ってすれば、本気で戦闘を開始しておれば、ウクライナごときは3か月もあれば制圧できただろうが、その意思は当初からないことは、本格的な侵攻をしなかった経緯からも解るだろう。

 国境の緩衝地帯を再構築しているだけだ。

 核を使わずとも、木っ端微塵にすることは出来るくらいの、軍事力の差はある。

 最初から東部2州を確保・保護することで始めた戦、ダラダラと欧米諸国が玩具にされているだけだ。

 ウクライナ紛争は長引けば長引くほど、原油や天然ガスの値は高値で止まり、寒い冬が来れば高くとも買わざるを得ないか、または凍死して行くことになる。

 ロシアが攻勢をかけなくとも、これから始まる寒い冬が決着をつける。

 中露の勝ちは最初から決まっている筋書きで、欧米メディアは嘘の上塗りで自国民を地獄へと落としている。

 用の無い無能な、大量消費生活だけの猿の群れは、これからの不景気で役立たずの石ころのように淘汰され、一度キレイに人類の世界を再構築しようとしている大きな動き。

 あなた方はそんな扱いを受けているのに、進んでワクチン接種会場へと並んでいる。

 昨日の米国株式市場の1200ドルを超える急落も、そんな世界覇権交代劇の一コマでしかない。

 虚しいお遊びに嵩じている守銭奴たちの群れは、刹那刹那で中身は空っぽ。

 人間性など、どこにも無い。

 

 明日にしておこう、来週にしておこう、今度にしておこう・・・こういう人たちには、人生の転機やチャンスはやってこないし、愉しいアクシデントや胸躍るトラブルなんて、仕掛けることなど出来ないだろう。

 いつも受け身、被害者になるために生きている。

 地球や宇宙は常に動いて変化を続けているが、人類は時間を停止させたまんま、無意識に動かされて転がされ、良いだの悪いだのと玩具にされている。

 ずっとだ。

 ナニも自分が無いまんま、仮想的な日常を送っている。

 愛や恋もそうだし、仕事や金儲けもそう、みな自分自身を知らぬまんまに、踊らされて転がされている。

 ダイダラボッチの、玩具だろう。

 そんな小猿たちが財産・資産を持ったところで、ナニも変わらないし、不感症の案山子でしかない。

 

 毎朝6時前には起きだして、動き始めているが、今朝は渋谷の外れまで、直腸癌の爺様を連れて行ってくる。

 これで半日が潰れてしまうが、介護だの看護だのとは、そういう時間を使わなければナニも進まない世の中社会になっている。

 病院は、コロナ対策で億円単位の助成金が出ていたが、じきに医者も外科医だけ、薬も漢方程度、そんな時代がやってくるための、そのための助走路に入っていることを知らないんだろう。

 平和・復興になれば癌や難病・コロナのような感染症を流行らせ、医療と慈悲に満ちた介抱という業界が儲かるように世界を回し、いまは軍需の兵器や武器が忙しく儲けを貯め込んでるが、その都度に世界人類は人員削除をされて調整をされているわけだ。

 宗教も、洗脳して楽して儲けるための手段だと解るのかどうか?

 間抜けなヨダレ猿らが、国民を弄んでほくそ笑んでいる。

 ところが億円単位の金ですら、アッと言う間の泡銭。

 われわれ自営の周旋屋なんざ、それが痛いほど解って生きている。

 資本主義の社会では、天国と地獄を往復しながら、一人前の周旋屋になって行く。

 生きている目的や目標がゼニカネだけで生きている猿には、死ぬまで解らないことだろうが、神々はそんな世界を自由自在に、寓話の世界のように、大笑いしながら生き抜いて行く。

 コロボックルだって、もっと利口に生きておったわ。

 

 


人の忌み嫌う場所にこそ、宝あり

2022-09-12 10:53:57 | 銀座の周旋屋

 

 生活保護を受けて暮らしていた身寄りの無い高齢者が、また一人亡くなった。

 あちこちでそんな古いアパートやマンションを管理していると、日常のことでもあるが、今回は8月の末に体調を崩して入院し、そのまま病院で亡くなった。

 区の福祉の担当と打ち合わせをして、これから動く。

 今回は孤独死して部屋で腐っていたとかではなく、病院で亡くなったから、残置の荷物の処分だけで済みそうだが、こういうことも日常のことだ。

 それでも親族や関わり合いのある者が後々に出てくることもあるので、キチンと合法的にやらねばならない。

 その生きた想いも背負って、20キロ以上はあるザックに積めて、この日曜日は岩山に登ってきた。

 岩山とは言っても、その行程の8割は薄暗い森の中の、滑る急斜面を延々と登って行き、梯子に簡易階段、鎖を掴んでエッチラオッチラ、こんちくしょう! くそったれ! で汗だくになり、息も上がっていた。

 登り始めが遅い時間だったから、最初からヘッドライトは用意してあった。

 右目が見えづらくなってるから、夕闇は視界が効かなくなる。

 だからヘッドライトを早めに点けて歩くことになる。

 下山時には、すでにそんな状況だった。

 趣味は登山、山ガール、楽しんでますというような、浮わついた軽薄野郎どもとは、担いでいるものも違えば、その重さも違う。

 早く走るなんて、出来るものでもない。

 山頂では、亡くなった者の想いを、天に還してやる。

 銀座の周旋屋が、何十年も続けている、浄化昇天の普通の行動ではある。

 寂しい孤独も、自業自得、挙句に自分のケツも拭けずに最期を迎えた者には、同情などないが、せめておいらが現世との縁をスパッと切ってやる。

 自意識過剰で、自分に対する気持ちが強すぎる者たちばかり、その癖ナンの自信も持てない半端な自分を無に還してやるだけだ。

 あなたたちも、自分自身の最期を、モルモットのように生かされるだけで、キチンと自分で準備出来ている者はいないだろう。

 どんなに財産資産を抱えていても、おなじ惨状。

 それこそ、甘ったれた幼児と言う。

 

 今朝は8時から、うちが管理しているアパート5棟が建つ敷地の草刈りに、区のシルバー人材の老人たちが集まって、いっせいに作業を開始している。

 差し入れやらナニやらをしてきたが、入居者も身寄りの無い高齢者ばかり、関わる人たちも高齢者ばかり、時代を映しているようで、元気に怒鳴って大笑いして来た。

 

 俺のまわりでは、いつもこんな風にいろんなことが起きて、丁寧にこなして、また次の話に動き出す、終わらない、ゆっくりする時間の無い日常が、淡々と過ぎて行ってる。

 ひとつ終わっても、良かったね~と言いながら、もう次の話に首を突っ込んで行ってる。

 可笑しな話だが、こうやって63年を生きて来た。

 凄まじい時間の連続だから、身体もそろそろガタガタになってるさ。

 

 ネズミの害の苦情の処理も、ネズミ駆除専門業者など使わずに、近所の猫を飼っている連中から毛を集めて、それを四方に置くことで対応しているが、意外に効果がある。

 猫の毛を集めて、幾つかの小袋に詰めて、四方の隅に置いておく。

 原始的ではあるが、銀座では意外に効果はある。

 そんなこともやっている。

 

 共同トイレのドアが動かなくなったと苦情があり、外人世帯しか入ってないマンションで生ゴミを部屋の前に捨てる奴がいると苦情があれば英語で注意事項を貼り出したり、駐車場の管理看板が破壊された、雨漏れが始まった、エアコンが動かない、日常のトラブル対応だ。

 ビル・エントランスのアロエの木が伸びて邪魔、すぐにカマを持って刈り取りに行く。

 

 測量をしている現場では、隣の所有者の中国人が中国に行ってしまったから調印をもらえないとか、引っ越しと残置物の処分を同時にやってほしいだとか、キリの無い話題が毎日のように飛び込んでくる。

 この忙しい折に、前期高齢者の俺のところに、だ。

 

 身内のステージ4だった癌患者がひとり、癌を克服して、爺様も水曜日に大腸ステントの診察に連れて行くが、仕事でもあちこちから紹介の話が飛び込んで来ていて、本当に忙しい。

 

 人の忌み嫌う場所にこそ、宝あり。

 人の避け、見ないふりをする仕事にこそ、儲けあり。

 基本だな。

 


現代社会での、癌に対する心構え

2022-09-09 11:11:27 | 癌のステージ4なんて糞喰らえ

   

 

 癌は、コロナと同じで、目に見えない敵だという暗黙裡の知識の洗脳と解釈があり、そこに怪しい治療や怪しい医療が多種多様に入り込んでしまっていて、悪性腫瘍を抱えたら終わりの無い苦難の道が始まると、皆さんは思っている。

 どんな人間でも、悪性の腫瘍はいつでも体内に生まれはするが、通常はそれを自己免疫で即座にやっつけてしまってる。

 それが出来なくなってる者が、悪性の腫瘍を大きく進行させ、難儀な終わり無き治療という名の日常を、延々と送らされて行く訳だ。

 癌をやっつけるのではなく、まず各自が体内の自己免疫を健康なモノにする、これがナニよりも大事なこと。

 そこを勘違いしていると、終わりの無い残酷な日常が、金儲けに利用され、死ぬまで続いて行くことになる。

 想えば、俺はガキの頃からそう生きて来た。

 生きていての煩悶を、親や家や他人や社会のせいにしないで、すべては自分を変えて鍛えることで自由自在になると。

 予防医学、ワクチン、健康食品などなどは、この自己免疫の邪魔をして破壊することすらある、俺はそう考えている。

 余計なことはせずに、大自然・地球とともに生きる、そこでいつも身体をクタクタになるまで酷使してやる、これが一番の基本になっている。

 

 この春に、それまで元気に普通に過ごしていたのが、すぐに息があがり苦しくなるようになり、それから酷い貧血症状を起こし、大学病院に急患で診療に出掛けて検査をすると、いつ倒れてもおかしくない数値だと言われ入院し輸血、並行して精密検査の結果、大腸に大きな悪性腫瘍があり、腸壁を破ってリンパ節や他にも達しているとの連絡を受け、しかも肺にも転移している、ステージ4だとのいきなりの通告だった。

 コロナ渦で面会もできず、本人とは電話で話すだけだったが、もう仕方ないよ、との淡々とした、絶望するでもない諦めの言葉ばかりだった。

 義父も食道癌で、むかし手術中に義母と義弟が呼ばれて、腸を食道に移植して対処するとの話を受け入れて、言うがまんまに外科医に弄ばれ、挙げ句に目が覚めることもなく2か月近くの植物状態のまま、残酷な最期を迎えていた。

 医療にまかせっきりにはしない。

 すぐに俺の主治医がいる癌では日本トップクラスの専門病院に連絡して、駄目だとしても、納得の行くように後悔無く対応してやりたいと伝え、転院の準備に入った。

 データの移転やらが終わり、本人を連れて入院手続きを終える時には、緊急手術の日程が5日後に組まれ、アッと言う間の手術が終わった。

 癌のステージは4、手術前の患部の画像は大きくなった癌で見るも無残な状態だった、ただ・・・執刀した以上は根治を目指しますよ! 転移の可能性がある部位を可能な限り削除しました。・・・との笑顔には感動したもんだった。

 それから奇跡は続き、遺伝子解析の後に免疫療法へと移り、あとは1500m以上の新鮮な空気を浴びる山登りと、ラジウムなどの強い放射線が出ている源泉に浸かる週末を黙々と繰返し、3ヶ月経った精密検査では、腫瘍マーカーは正常、全腹部には転移はなく、肺の影もイマイチ疑わしいとの話だった。

 肺癌は細胞をとっての病理検査は手術しかなく、それならば患部を削除してしまった方が一度で済むからとの話で手術日程も入れてあったが、念のためにPET CTを撮ってもらったところ、悪性腫瘍だと色が変わって反応する筈のものが無反応だった。

 微量の放射線に、身体を被爆させて撮るPET CTは、精度が高い。

 良性の腫瘍か、ナニかが治った痕跡か、カビ類かナニかは判別できないが、3ヶ月大きさが変わらなかった小さなモノだから、また3ヶ月くらい様子を見ても良いとの判断で、月末の手術は急遽中止になった。

 昨日のことだが、信じられないことが続いている。

 こんなことがあるのか? 

 つまり、ステージ4を宣告されてから、嘘のない最善の対応とはナニかと考え続けて、5ヶ月で体内から癌は消えてしまった。

 凄いことが起きたのか、それとも癌とはそんなに神経質に怖れるものでもないのか? まだ解らない。

 信じられないことが、俺のまわりではよく起きるが、今回はぶったまげた。

 癌の治療は、まず脅しで怖がらせて、委縮させ、思考を停止させて良いように弄ぶ、俺はそう思っていた。

 それには乗らず、自分たちで考えて選ぶ、これが第一義だったが、一度の手術ですべてが終わったようなもんだ。

 いまだに、そんなことがあるのか? と、脱力感でいっぱいだ。

 ならばもっと早い時期にPET CTの検査をしておけば良かったのではないかという問いは、癌の性質が解ってない愚問になる。

 最初の執刀をお願いした外科医の腕が、すべてを決めてくれていた。

 そうして自己の免疫を健康な状態にしようと、地球の大自然の恵みをたくさん穫り入れたことだけで、こうなった。

 薬など、ナニも飲まず、酒も止めてしまい、治療の苦しみなど無く、ナニも努力らしい努力もしていない。

 意味不明な抗がん剤治療に較べて、費用もかかってない。

 オストメイトとなっても山を愛し、海を愛して生きてる俺の日常に、しっかり引き戻してやっただけ。

 これは今後の再発防止でも、そのまんま行くつもりだ。

 ただ患者本人は覚悟だけは決めて、精神的には辛かっただろうが、表には出さずに、笑って過ごすことに専念していた。

 全身全霊で当たっていたから、俺もどっと疲れが出てるが、次は93歳の爺さまの、閉塞気味に肥大した直腸癌にステントを埋める治療をやらせてみようと動いている。

 訪問介護に訪問看護、在宅診療の体制も整え終えたので、どう残りの命を過ごさせるのか? そうなっている。

 医療治療でイマイチ解らないことがあれば、他の病院のセカンド・オピニオンを作り、見たり考える方向を拡げることは必要だ。

 去年近くに引っ越しをさせて、毎日の愉快な会話で酷い認知を治したばかりで、しばしの入院に耐えれるのか? コロナで面会もできない中で、何が出来るのか? 眠れない日が続いている。

 下らね~コロナ脳に染まった国家と国民や、商業主義に突っ走る医学と対峙して、それをどうやるか? 

 今朝も5時には目が覚めて動き始めているが、あちこちの仕事も、手は抜けないモノばかり、なにもかもを背負って、難儀な高い山の頂を目指して登って行く。

 生きているって、まだまだ興味深く、オモシロイ。

 

 余談だが、酒の文化というものは、泰平の江戸時代でも今ほどは庶民も飲んではいなかった。

 謀略や策略には、よく使われていた。

 祭りの文化には酒が付き物だが、それも統治という下心の為せる業だった。

 明治期から昭和にかけて、日本史を紐解く場合に、色付けや歴史の飾りとして酒を飲んでいたという習慣を挿入するようになり、大昔から日本人は酒好きだったと思わせるような記述が増えて行った。

 司馬遼太郎だとか、そういった歴史モノを書く作家たちの仕業でもあった。

 酒と女、これをセットにしておけば、売れる、そんだけのことだ。

 それを真に受けた現代人は、英雄は酒と色を好むと勝手に解釈し、麻薬と一緒に常習するようになってる。

 ただの平和ボケした現代人の、弱っち~常習化。

 痛み止めの麻酔として、酒や麻薬は存在していたのが実際で、平和になるとそれが不感症な人間や、身勝手で逃避癖の強い連中の常習によって、快楽追求と睡眠のためにと広まっていっただけだ。

 売る方も趣向を凝らして、煽り続けているから、それが現代人にとっては普通の景色に映っている。

 痛み止めや睡眠薬などいらない人間にとっては、無くてもぜんぜん平気なモノだ。

 酒や薬や麻薬などなくとも、生きて最上のエクスタシーを永続させることが出来なければ、ただの獣だろう。

 心とか、精神とか、生き霊とか言ってみたところで、それがキチンと味合えないのでは、ただの獣さ。

 

 銀座の街で30年以上、こうやって見返りなど考えずにコツコツと、口先は賑やかに無茶苦茶やってるように振舞ってはいるが、やることをキチンと続けてくると、まわりに良い人ばかりが集まって来てるようでもあり、懸命に他人や社会のためにと無償で手を貸して生きてばかりいたって、神や仏など甘ったれたものなど存在しないと決めつけていたが、なんだかこれが見返りだとしたら、これ以上の報酬はないんだろうとも想う。

 何十年も自営を続けて来た甲斐があったと、想いもする。

 

 


昭和の習慣や価値観は、ゴミ箱へ

2022-09-07 10:37:55 | 地球と生きる

 

 ダラダラ長かった昭和の時代の、敗戦後の復興という価値観では、既に存在する概念やシステムを弄ることはなく、ただその中で極める・熟達する、これが優秀なことだとワンパターンな時間が延々と続いて来た。

 平和とは程遠い、集団洗脳・集団拘束社会が分厚い層を作り、偏差値教育や暗記教育がそれを助長して来た。

 新しい価値観、新しい生き方、新しい日常習慣、こういったものは、すべて封印されていたからこそ、息苦しい社会はどんどん酷くなって来た。

 親の言うとおりに生きて居れば良い子で、先生や学校の言うとおりに勉強をしておれば優秀で、目隠しして国を信じておれば、明るく楽しい道が用意されている、そんな迷信がいつのまにか社会を染め抜いてしまっていた。

 人間とは、おなじ人間は二人といない。

 個々人には、それぞれの性癖や性格、体質や機能・能力という差異があるのが自然なことだが、その優劣を競うようになっている仕組みの元は、長く続いた昭和の残骸、これは素晴らしい、これは劣悪だ、そんな日常の洗脳された価値観が元になっているだけだ。

 俺が10代の頃は、そんな昭和の絶頂期でもあったろう。

 共通の価値を叩き込まれた国民大多数が、一つしかないルールの下で、競い合う社会になっていた。

 その時から、俺はそのルールを疑い、自分自身で、社会や他人と上手く関わり合いながら、自分にあったルールを作って、愉しく生きて行こうと群れには背を向けた。

 それから半世紀、そのまんま生きて来た。

 

 老いてくると、生命に関わる話が多くなってくる。

 医療や薬、病院に葬儀場、葬式の形態に墓地の管理やナニやらと、そんな話ばかりが多くなってる。

 家族や子供たちは、その残される遺産や財産の方に目が集中し、税金対策やナニやらで、人間同士の密な関わり合いなど二の次となっている。

 これが綺麗ごとばかりだった昭和の、本当の姿だろう。

 そこから落ちこぼれた人たちは、宗教に走ったり、引き籠ったり、犯罪に走ったり、イロイロだが、決して楽しく生きることなど出来ない社会となってしまってる。

 俺もガキの頃から集団から外れて生きてきたが、自分のことだけではなく、社会や他人と上手く関わり合いを持ち、自分の生き易い場所を作り、資本主義社会の中で自分の立ち位置を作ることに専念して来た。

 今いる環境・境遇の中で、それをやる。

 他人や社会と競うことはしなかった。

 俺は俺。

 

 浮浪の民のように、生まれてから半世紀以上も各地を転々として生きて来て、おかげで土着信仰だとか宗教の影響を受けることがまるでなくて、あるとすれば真夜中に極寒の雪山に登って、山頂で味合う日の出の太陽の暖かさに思わず手を合わせてしまうことくらい、だから俺にとっては大自然への感謝くらいしか、宗教心は無い。

 退屈で下らない家を離れたのも早く、親や爺婆の影響もすべて一度粉々にして育ち、神や仏への思いも、ほとんどナニも無いと言って良い。

 先祖やあの世や、霊魂や幽霊というものもすべてが解決済みで、真夜中に人のいない奥山を登り始めることばかりやっていると、注意を払うものは生きているものだけになっている。

 自分が神になって動くほかに、ナニも起こらないし、ナニも始まらない。

 神頼みや仏頼みなど信用しておらず、頼んで上手く行けば次にお礼や寄付と続く終らない営業には、苦笑しかない。

 島国土着の民ならば、延々とそんな祭りを続けているんだろうが、島国を浮浪している俺なんざ、生きているものだけをジッと見つめて過ごしてきた。

 受け身の生き方が出来なくなってる所以ではある。

 このコンピューター全盛の時代に、お化けや幽霊を怖がっているほうが、どうかしているぜよ。

 結婚式や葬式という風習を無意味に、頑なに守り生きている大人社会は、笑える喜劇。

 どんなに金儲けをしても、どんなに財産資産を手にしても、3代も持たない意味は、生きてる価値観にある。

 コロナ教の布教が世界でも一番に上手く行ってるのが、マスク原住民の日本だろう。

 そうして裕福な余裕のある家に育ち、高学歴の人たちのほうが、コロッと洗脳されている。

 義務教育と日常生活での洗脳が、価値観・感情・思考の基礎にキチンと寝そべっている。

 俺は小学校だけでも6回転校しているから、義務教育をキチンと受けれなかった。

 おかげで日本国家の延々と続く国民洗脳からは外れたところで、半世紀を過ごして来た。

 ずっと疑問ばかり、可笑しいことばかりなのは、仕方が無いことだろう。

 

 昨日は婆様の三姉妹の二番目の妹の葬儀に付き合って、横浜まで下の妹の婆さんも乗せて行って来たが、昭和の葬式に出席し、焼香だってみなキチンとロボットのように三度やってる中で、俺は一度の念だけ、こういう生き方をして来た者らしく、心を込めて・・・お疲れさん・・・だった。

 下らないね~、だらだら生臭お経に、棒読みの挨拶、式場の差配に言うがまんま。

 これが昭和の作り上げた礎だとしたら、砂上の楼閣にしても脆すぎる。

 そんな風習や習慣なんて、下らね~価値など無いもんだ。

 心のない、人と人の温もりのない関わり合いなんて、要らね~よ。

 ガキの頃と、俺はなんにも変わってない。

 

 さ、今日も在宅医療の打ち合わせや介護認定の見直し、緊急時の病院の選択に、運動がてらの買い物散歩に付き合ってやりながら、仕事でもあちこちを走り回って赤鬼になるさ。

 髪もボサボサだから、散髪にも行かねば。