若い時分から、まわりに振り回されずに独自の価値観を持って後悔しないように生きて来た者には、40~50歳過ぎても相変わらず飲んだくれて、ダラダラ街中で時を無為に過ごすことはない。
いつも何かを気にして、まわりの目を気にして、そのはけ口として酒や色やギャンブルがあるのは、昔からだ。
要はそのストレスの根本はなくなってないからこそ、延々と死ぬまでストレス解消を続けてるだけのこと。
俺なんざそのストレスが無いから、そんな大人社会の下らない習慣など持ち合わしてはおらん。
・・・ということで、今日・明日は身内の90歳になる爺様が大腸癌になったというので、急遽店は休業にして電話は転送、でもって地方へと出掛けて行く訳だが、その途中も、色々と新幹線を下車してチョイと喰ったりするつもりだ。
遊び呆けて60年、経験だけでも相当なモノを持って居ると、何処に出掛けても行動範囲は限りなく拡がる。
あとで後悔するくらいなら、いま出来ることをやる。
この1週間だけでも、仕事も忙しい中で相当にあちこちの関わり合いで動き回って夜はいつもバタン・キュ~だが、自分の時間とは、そういう他との関わり合いを優先することで色が濃くなり多彩な虹色になって行くんだ。
ナニもせず、仕事と家の往復で、機械の生活に疲れて自分の時間を!って~のは、病んでる連中のやることだ。
自分とは、他があって初めて磨かれるもので、他もロクに無い癖に自分を磨き、自分にご褒美という話は、どこの間抜けらがやってる自慰なのか? 笑える大人社会だ。
電波を介してる時点で、それは他との関わり合いとは言わない無味無臭。
俺のような生き方をしていると身内の数がどんどん増えて行く。
身内だけでなく、そこからその周辺の他人まで関わり合いを持つようになって、キリがない大忙し。
そんな個々との関わり合いの中にこそ、自分というモノが現れて来る。
大袈裟なものや、大袈裟なことはしない。
あくまでも個々との関わり合いだけで生きる。
そうしていつも正直な本音の話をする。
メールやらラインやらのような、電波を介した無責任で味気の無い関わり合いは、いっさい興味も無い。
目の前の他人の目を見て、口を動かして話をする、これしか大事な話はしない。
またそういう時代になるんだよ。
電波の時代だからこそ、囁きやヒソヒソ話の愉しさが、また人間社会には戻って来る。
さ~て、出掛けてくるわさ。
今日は俺が運転する訳でもないので、のんびり行って来る。
エエ天気やで。