毎日、ベッドで寝てることの多くなった爺様の元に、顔を出してやってる。
医者やケアマネージャーや看護や介護士が来ても、無表情で機嫌が悪く、怒り出したり怒鳴ったり、これを病気だと決めつけてしまう現代の医療や介護にはおおいなる疑問があるが、一応は、俺も自営の忙しい仕事も抱えている訳で、かかりっきりにはなれないから、身内としての責任を果たしてやれてないこともあって、黙って喧嘩をしないようにアドバイスを聞いてるフリはしてる。
余計な行動は、もうナニもするつもりもない。
癌よりも、先に老衰が進んで行ってる。
良い感じだろう。
俺が傍にいると、昨日もよく話していた。
いろんな話を聞いては応えてやってる。
自分の身体が思うように動かなくなり、自分自身が嫌になるとも言っていた。
・・・おおらかに、おおらかに、空よりも高くおおらかに、ゆったり過ごしていなさい
・・・あんたに、そんなことを言われるとは思わなんだ
ニヤッと嬉しそうに笑っておった。
・・・後のことは、もうナニも心配いらんから、自分を許すように、おおらかに、過ごしなさい
・・・ほんとに、頼りになるの、助かったよ
今日は、昼前に、流動食ばかりではつまらないと言うので、鰻の蒲焼を買って行ってやる。
婆さんも、好きな料理を食べさせてやる爺様が流動食になりつつあるから、やる気を失っている。
昭和の幸せな時代を、自分たちのことだけで生きて来た世代が、こうやって終わりを迎えて行く。
あんたらの無責任な時代のおかげで、俺の日常は大忙しになっている、いつも笑って二人に言い放ってやってる。
去年は、田舎の家を処分して、引っ越しさせて、毎日面倒を見れる場所に住まわせてやって、いろいろと驚くような我儘な生活に腹が立つことも多かったが、命の終わり方すら自分たちでなるようにしかならないと放り投げて生きて来た世代だから、信じていた国家に騙されて、テレビや新聞には振り回されるだけ、それで老後の生活設計なんてナニも考えてなかったツケ払いが行き詰まりつつあったタイミングで、四の五の言わさずに銀座から歩けるマンションに連れて来たのは、ラストチャンスではあった。
引っ越しの上京をする飛行機の中で、後ろの座席から92歳の爺様と87歳の婆様の二人を眺めていた時、羽田空港について、二人仲良く笑って手を繋いで、ゆらゆら歩いていた光景を見たときは、さながら戦場から瀕死の負傷兵を連れ出したランボーみたいな気分だった。
これで良し、すべては俺が一人の独断で、すべて俺の動きだけで粛々とやってやった。
認知が酷かった爺様には、遠い田舎を何度も往復して話していた俺一人で、動くしか方法もなかった。
田舎の山の中の先祖の墓の掃除にも出かけ、写真を見せたり、安心させることはすべてこなして来た。
このコロナ渦でも、毎年のように仕事でもバブルを作って来てる姿も見せてやり、銀座で30年、自営を続けてる凄みと怖さは解ったろうし、今年は癌ステージ4を宣告された嫁が、どん底から快癒まで俺が激しく走り回っていたのもジッと見ていた。
次から次へと起こる孤独死の現場や、その後の片づけ仕事、自分たちのことだけで生きて来た高齢者世代には、驚くような日常の仕事の雑務の多さに・・・金にもならないことを・・・と、黙って見ていた。
これで俺の仕事は終わりではなく、二人の命の終わりまで看取ってやる、忙しい自営の仕事を続けながら、他の多くの人たちの、俺を必要としている人たちの面倒も見ながら、ずっと働いてゆく、それが俺の生きて居る意味でもある。
あとは週末にハンドルを握って何百キロも走り、高い山に登って頂から絶景を眺め渡す、その時の気分を他人に語ることは出来ない。
時代への不満? 国家への不満? 愚かにも騙されてノホホンと生きてる日本人への不満? あちこちにいる女や子供たちへの不満? 近くに両親を引っ越しさせても顔すら一度も見せない妹夫婦と孫たちへの不満? 自営の仕事の馬鹿馬鹿しい不満? なにも無い。
そこにあるのは、やっぱり、青々とした空と、もくもく白い雲、綺麗な景色に、人間のいない安堵感。
もう、エエかげんに、飽きたでよ。
ガキの頃に、小学校を6回転校したときに、つくづく思ったもんだった。
・・・人間の世界では、悪い奴を倒すには、もっと悪い奴になるしかないだろう・・・と。
ただ、合法的に、そうして一番に肝心なことは、独りで、利口な女や子供を玩具にするような悪では、ダメだと。
その通り、生きて来た。
大笑いだろう。