こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

お知らせ

2005年09月27日 | 仏教
9月26日
潮音院第48世法印 石田光豊和上遷化。

通夜:9月29日(木)7時~
本葬:9月30日(金)正午~
出棺予定:同日 14時30分~

場所:潮音院本堂
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奥床しさ

2005年09月23日 | つれづれ
ほんの数分間の読経を捧げる夏のお棚経。

そんなときにも、
玄関先を掃き清め、
しっとりと打ち水をし、
玄関脇の棚の上には季節の野花。
仏前に座し香炉を見れば、
きれいに漉された灰。

こんなお宅に行き着くと、
ついつい長居をしてしまいます。(笑
後々の苦労が待っていますので、
極力お尻に根が生えない程度においとまするのですが、
人の心理って、案外正直なものです。

「奥床し」っていう言葉がありますが、
調べると、「知りたい・聞きたい・見たい」という意味と、
「深い心つかいがあって引きつけられる」という二種類の意味があるようです。

一見全く違う意味のようですが、
根底を流れるものには、
何か共通するものを感じます。

奥ゆかしき家をたずねれば、
ついつい引きつけられ、
いろんなところを眺めたくもなります。
お話も盛り上がりますし、
この奥床しさはどんなところから生まれるのだろうかと、
その背景を知りたくもなります。

あれぇ?ただのデバガメかあ?!
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出会いの大切さ

2005年09月22日 | 仏教
お彼岸期間といわれる一週間は、
自分自身の思いや行動を省みる心の修養期間だといわれます。
昨日は、福岡県篠栗霊場の名刹「切幡寺」の住職さん(38歳)から、
心に沁み入るお話を伺う好縁に恵まれました。
そこでは、巡り会いご縁の大切さ、ひとつひとつの出会いの大切さを、
具体的な体験レポートを通して、熱くエネルギッシュに語っていただきました。
私たちが、幸せに生きていくために必要な見方考え方を、
非常にわかりやすく、そして、古風な語り口で。
ですから、お年寄りの方々の中には、
なにか懐かしい伝統芸能を鑑賞しているような雰囲気の中で、
心に響く内容のお話が聞けて、とても感激しておられる方もいらっしゃいます。
ほとんどの聴衆が目頭を押さえ、そして時として出てくる
ユーモアあふれる話題に白い歯を出して微笑んでいました。

久しぶりに、内実共にかっこいいお坊さんに出会えて、
たいへん有り難かったです。

感謝”!!
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訪問販売員が元気なわけ

2005年09月15日 | 仏教
「清めの塩」

 あまり気にしていなかったことですが、ここ数年、様々なシーンでこの「清め塩」について質問を受ける機会が増えてきました。目くじらを立てるほどのことはないにせよ、日本人にとって大切な心の置き方にも関係するような気もしますので、少し考えてみることにします。
 どこの宗派か知り得ませんが、「死は穢れではないから、清める必要はない。」ということで、葬儀のときに参列者に渡す「清め塩」を廃止する旨の働きかけを強力に推進されているようです。私もセレモニーホールのロビーで、その旨の看板を何度か見かけました。
 いろいろと調べたり聞き及んだりしているうちに、このような廃止運動の背景には、次のような根拠があるようです。

1.清め塩は仏教的根拠がない。まったくの迷信・因習だから。
2.故人への差別・冒涜である。
3.差別の温床になる迷信・因習である。

 残念ながら、これら三つの根拠は、根拠として成り立っていません。根っこのところの誤った解釈から発生しているようで、これにひとつひとつ対応していると、問題とすべき視点がぼけてしまいますから、避けることにします。
 まず、「穢れ」とは何なのか?から考えてみましょう。学生の頃、宗教学の先生から教わったことは、穢れは「気が枯れる」という意味であるということでした。「気が枯れる」、すなわち「気枯れ」ですね。ではなぜ、気が枯れてしまうのか?
 私たち人間は非常に精神的な生き物です。心が世界を成り立たせていると言ってもいいでしょう。ただし、人の心は時として弱いものです。様々な逆境に出会うたびに、ド~ンと落ち込んでしまいます。「元気」のき、これが無くなってしまう。
 人の「死」は、「けかれ」の最たるものでしょう。諸行無常、会者定離と充分わかってはいても、いざ愛するものとの別れがおとずれたら、私たちは、極度の気枯れにおちいってしまいます。親族・知人の死に際し、極度の悲しみに心を覆われてしまう。私たちが神仏より戴いた命の輝きを、十分に発揮することができなくなります。光化学スモッグに覆われてさえぎられた陽の光です。まさに「穢れ」以外の何物でもない。
 遺族親族に覆いかぶさるこの悲しみというスモッグは、四十九日という時間をかけて徐々に癒されていくことになります。人の心のダメージから脱却するためのひとつの節目です。故人の仏道修行の階梯を支援する期間です。共に歩んでいくのです。それが「喪中」といわれるものです。「忌中」ともいいます。「忌」という字は、己の心と記します。己の心が、悲しみの雲に覆われて極めて不安定な中にある、状態です。だから四十九日を迎えると、「忌明け」といって、己の心に覆われていた雲がすっかり取り払われて、明らかに、明るくなるわけですね。
 それに対して、故人から少し距離のある人たち、すなわち、故人の友人、同僚、知人、ご近所は、だいぶ係わり方が違ってきます。この人々は、悲しみを受け入れながらも、本来の使命・役割を果たすことも忘れてはなりません。悲しみの空間から、日常の社会生活に戻る必要があります。気が枯れたままではいけないのです。その戻る際に、「お祓い、お清め」が必要になるんですね。元気の気を取り戻さなくてはいけない。お相撲さんが、取り組みのときに大量の塩を土俵や自分にまく行為も、平常の精神状態から脱却し、最大限の力を発揮できるような精神状態にまで引き上げる、ということでしょう。
 ですから、葬儀の後に喪主の心配りで「清めの塩」を配布するという行為の背景には、相当の意味を見出しますし、たいへん気配りの行き届いたことであろうと思います。ただ、セレモニーホールなどで準備されているお塩が、どのような塩であるか明らかでないのであまり勝手なことは言えませんが、できれば、海水(潮)からできたお塩、それもきちんと神仏の御前で御祈願されたものが有効です。菩提寺や神社から戴くか、家庭の神前仏前にお供えされたものを使用しましょう。
 もともと、祓い清める力を持つのは、あの「海」ですよね。「潮」です。そこから「塩」を代用品として使用するようになったような気がします。川の流れは大海に注ぎ込み、全てを洗い清めてくれます。「水に流す」って言葉もありますね。何も無かったことになっちゃうんです。
 現代は、ストレス社会といわれますが、そういう意味では、現代人は万年「穢れ(気枯れ)」状態かも知れません。神聖なお塩で祓い清めて、すっかり元気の気を取り戻しましょう!!
 蛇足ですが、長年訪問販売の営業をやっている私の友人は、ストレスの「ス」の字も知らないやつです。いつ会っても元気いっぱい。今、そのわけが解りました。
 毎日、訪問先のお客さんから大量の塩をまいてもらっているからですよ、きっと。
・・・しょっぱすぎ?!
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秋風さま

2005年09月15日 | つれづれ

夏が過ぎ 風あざみ

誰のあこがれに さまよう 

青空に残された

私の心は夏模様♪

 

何の脈絡もないのですが、

涼しくなってきました、ずいぶん。

で、本日のご法事のお勤めで、

久しぶりに汗をかかずにお勤めを終わることが出来ました。

もう、3,4ヶ月ぶりくらいになるかも知れませんね。

肌襦袢が繰り返し着用できる季節到来!

ありがたいことです。

これもひとえに、初秋新涼さまのおかげでございます。

出来るだけ末永くとどまって下さいますよう、

切にお願い申し上げます。

        

 

 

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