こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

地蔵盆。子どもたちの発育健全、地域興隆を祈願

2016年07月24日 | 仏教

 七月二十四日、地蔵盆供養をおつとめし、子どもたちの発育健全、地域興隆をご祈願申し上げました。

本日の主役は、日頃から一生懸命ご詠歌奉詠のお稽古に励んでいるご婦人方です。

計6曲の詠歌和讃を、酷暑の中にもかかわらず汗だくになりながらお勤めされました。

  

みなさん、年ごとに上手になられます。私は終始発声を抑えて、みなさんの詠歌に聴き耳を立てていました。

ほとんど安心して聴き入ることが出来ます。すばらしい成長です。今後の発展がどんどん楽しみになってきました。

   

御詠歌講の先達さんはじめ、皆様方、お疲れ様でございました。

また来年も、よろしくお願い申し上げます。

 

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暑い縁日汗流し 山寺すがし心もすがし

2016年07月18日 | 仏教



境内は、夏の剪定作業や、ご縁日のご奉仕作業で、とても活気のある一日でした。

  もみじ谷は、背の丈ほどの草が繁盛。あと数年すれば、もみじの枝葉でおおわれて、
雑草の量も少なくなるんでしょうが、今はまだまだですね。しばらく除草作業は欠かせません。

 用事があっても、ちょっとでもお手伝いしたいと、時間をぬってご奉仕いただく方もいらっしゃいます。
たいへん有り難いことです。

除草作業に並行して、駐車場の排水工事作業も。溝を切って、6トンほどの栗石と砂利を敷き込みます。
栗暗渠(ぐりあんきょ)と呼ばれる排水技法だそう。
これで、駐車場に水たまりが出来にくくなります。

  本日は、全国的に暑い一日でした。
10時の休憩で、もうすでに皆さん汗びっしょりでした。
暑い中を、本当にお疲れ様でした。

きつかったけど、善いご縁日でございました。南無観世音菩薩。

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自分の経験にどんな意味付けをするかによって未来が決定される

2016年07月17日 | 仏教

どんな経験も、それ自体が成功の原因になったり失敗の原因になったりするわけではない。

自分の経験によって人生が決まっていくのではなく、その経験にどんな意味付けをするかによって、

人生が決まってくる。

例えば、「私は子どもの頃、両親から充分な愛情を注がれることなく育った。

だから、今、私の人生は生きつらいものになっている。」というふうに、

過去の教育や子育て環境を、今の自分の不幸に結びつける人は少なくないと思う。

しかし、同じ環境で育った人でも、「だからこそ自分の子どもには、充分な愛情を注ぎたい。」とか、

「私の親は、私をたくましく育ててくれた。だから私は力強く生きている。」というように、

後から付ける意味によって、その人の行動や生き方ががらりと変わってしまうのである。

要するに、意味づけを変えれば、未来は変わってくるのである。

はじめから決定されている人生などありえない。

                               アルフレッド・アドラーより抜粋要略

 

七月十七日、加勢観音堂参拝。

ご本尊:聖観音菩薩。

痛みがひどいですが、なかなか味のあるステキなお姿をしてらっしゃいます。

 今日は、蒸し暑い中をご一緒頂きまして、
誠にありがとうございました。扇風機まで運び入れて下さって、
本当に助かりました。深感謝、合掌。

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ビートルズ「Let it be」はお経さん。

2016年07月11日 | 仏教

ビートルズ「Let it be」のとある翻訳をよんでたら、
まるでお経のようで。
もちろん、聖母マリアを観音様と置き換えてみてね。

以下に記しておこう。

 


苦難のときには
聖母マリアが僕のもとに現われ
知恵ある言葉をかけてくださる
゛あるがままに”

暗黒の闇の中で
あの方が僕の前に立ち
知恵ある言葉をかけてくださる
゛あるがままに”

何事もあるがままに
無理に変えようとしてはいけない
知恵ある言葉をつぶやいてごらん
あるがままに

打ちひしがれて
この世に生きる人々の思いはみな同じ
いつか必ず答えが見つかる
今は堪え忍ぼう

たとえ別れわかれになっても
また会える日が来るかもしれない
いつか必ず答えが見つかる
今は堪え忍ぼう

今はただじっと堪え忍ぼう
このままそっとしておこう
いつか必ず答えが見つかる
今は堪え忍ぼう

何事もあるがままに
無理に変えようとしてはいけない
知恵ある言葉をつぶやいてごらん
あるがままに

厚い雲が空を覆う晩に
僕を照らす光がある
明日まで輝きつづけてくれ
今は堪え忍ぼう

楽の音にふと目覚めると
聖母マリアが僕のもとに現われ
知恵ある言葉をかけてくださる
゛あるがままに”

今はただじっと堪え忍ぼう
このままそっとしておこう
いつか必ず答えが見つかる
今は堪え忍ぼう

何事もあるがままに
無理に変えようとしてはいけない
知恵ある言葉をつぶやいてごらん
あるがままに

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be

And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be

And whenthe broken-hearted people
Living in the world agree
There will be an answer
Let it be

For though they may be parted
There is still a chance that they will see
There will be an answer
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
There will be an answer
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be

And when the night is cloudy
There is still a light that shined on me
Shine until tomorrow
Let it be

I wake up to the sound of music
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
There will be an answer
Let it be

Let it be, let it be
Ler it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let ti be


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年忌供養には、時間の経過という大事な意味も含まれています。乱舞する多くの情報、という魔物に惑わされぬよう。

2016年07月05日 | 仏教



<1920年から1930年頃。朝鮮半島は金堤「大聖寺」の住職肖像画。

 私の祖父「石田光心」です。開教活動のなか、新寺を建立し

 教宣拡張に心血を注いでいた頃の若き住職です。>

**************************

年忌のお話しを少しさせて頂きます。

みなさんは、お寺から承ける年忌供養のお知らせを知って、なんとなく予定を組んでなんとなく供養を施し
なんとなく安心してなんとなく・・・ってところが実際のところだと思います。
実際は、毎年お祥月の命日はやってくるわけですから、その命日供養をきっちりやってれば、
ことさら年忌供養に心を注ぐ必要はありません。

 しかしながら現実の生活は、日々家事や仕事や趣味、地域活動etc.。多忙な毎日。
また、時間の経過と共に故人への思いもついつい薄れてきてしまいます。
もちろん、それは人間の至極自然なありかたです。それが悪いわけではありません。
しかし、人生という時間の流れのなかに、少しだけ手間と時間をかけて、日常とは違う非日常の時空を
あえてこしらえる、ということも大切なことであると思います。その中で、日頃おろそかになっている
故人への感謝や菩提を祈る心を持つ。それから、何より大切なことは、日頃疎遠になってしまう親戚の方々が
一堂に会し、昔話に花咲かせ、親睦と絆を深めるまたとない貴重な時間となることです。

 そこで、年忌の設定というシステムが重要になってきます。
だから、年忌と年忌の間は、間合いがすごく長くなっています。一例を示します。
潮音院では、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、25回忌、33回忌、49回忌(50回忌)という
8種類の年忌をおすすめしています。
実は、この8種類には、簡単な法則が秘められてるのです。

1周忌は、「今生のお別れをして、初めての月日が一巡りしましたよ」、という意味です。

3回忌は、「今生のお別れをした日を含めて3度目の命日がきました」、という意味です。3という数字は、
古来より物事の基本となる数字です。また、調和や安定をもたらす数字でもあります。
五徳って、三本足だから安定します。七五三、三三九度、三位一体、などなど、枚挙にいとまありません。

7回忌は、次の13回忌に対応する年忌設定です。13回忌までおよそ半分のところ、折り返し点まできましたよ、
ということ。昔から、13回忌は故人の魂が最も安定する時期であると云われてきました。
昔は土葬でしたから、ご遺体はお墓の土中に埋められ、その上に山から拾ってきたたくさんの野石を積んでお墓にしました。
で、13年という時間の経過と共に、土葬の状態も落ち着いて墓所そのものが安定する。
そんななかで生まれた魂の完全安定説!
この13年を期に、野積みのお墓を改葬し、その場所に立派な石塔墓を建立していました。
13年目に、きちんと石塔建立のできる家、もしくは世帯主を、一人前と認められていたようです。

17回忌は、先の例と同じく、33回忌の半ばまできましたよ、という意味です。
さて、33回忌という年忌がポイントになりますが、この33年というのは、昔の「弔いあげ」(打ち止め供養)なんです。
所謂「手あげ供養(手納め供養)」が33回忌だったんですね。お寺にある戦前の各種資料を眺めていると、
たしかに、33回忌までの年忌の記述しかありません。平均寿命が延びた現代にあって、弔いあげの供養も、
自然と先延ばしになったと思われます。17回忌は、昔の弔いあげまでの折り返し点です。

25回忌は、現代の弔いあげ供養の定番である49回忌(50回忌)の折り返し。

こうやって、命日が遠くなればなるほど、年忌と年忌の間も長くなっていく。それが自然のあり方です。

・・・とまあ、こんな具合。

ひとつひとつ説明を施していると、いささかしつこいような、めんどくさいような気もしますが、

近年、必要以上にたくさんの年忌設定をしてある印刷物が目に入って、気になってしょうがありません。

皆さんには、是非本来のあり方をご承知おき下さって、いろんな情報が飛び交う現代の魔物に

惑わされることなきよう、よろしくお願い申し上げます。合掌

 

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