「清めの塩」
あまり気にしていなかったことですが、ここ数年、様々なシーンでこの「清め塩」について質問を受ける機会が増えてきました。目くじらを立てるほどのことはないにせよ、日本人にとって大切な心の置き方にも関係するような気もしますので、少し考えてみることにします。
どこの宗派か知り得ませんが、「死は穢れではないから、清める必要はない。」ということで、葬儀のときに参列者に渡す「清め塩」を廃止する旨の働きかけを強力に推進されているようです。私もセレモニーホールのロビーで、その旨の看板を何度か見かけました。
いろいろと調べたり聞き及んだりしているうちに、このような廃止運動の背景には、次のような根拠があるようです。
1.清め塩は仏教的根拠がない。まったくの迷信・因習だから。
2.故人への差別・冒涜である。
3.差別の温床になる迷信・因習である。
残念ながら、これら三つの根拠は、根拠として成り立っていません。根っこのところの誤った解釈から発生しているようで、これにひとつひとつ対応していると、問題とすべき視点がぼけてしまいますから、避けることにします。
まず、「穢れ」とは何なのか?から考えてみましょう。学生の頃、宗教学の先生から教わったことは、穢れは「気が枯れる」という意味であるということでした。「気が枯れる」、すなわち「気枯れ」ですね。ではなぜ、気が枯れてしまうのか?
私たち人間は非常に精神的な生き物です。心が世界を成り立たせていると言ってもいいでしょう。ただし、人の心は時として弱いものです。様々な逆境に出会うたびに、ド~ンと落ち込んでしまいます。「元気」のき、これが無くなってしまう。
人の「死」は、「けかれ」の最たるものでしょう。諸行無常、会者定離と充分わかってはいても、いざ愛するものとの別れがおとずれたら、私たちは、極度の気枯れにおちいってしまいます。親族・知人の死に際し、極度の悲しみに心を覆われてしまう。私たちが神仏より戴いた命の輝きを、十分に発揮することができなくなります。光化学スモッグに覆われてさえぎられた陽の光です。まさに「穢れ」以外の何物でもない。
遺族親族に覆いかぶさるこの悲しみというスモッグは、四十九日という時間をかけて徐々に癒されていくことになります。人の心のダメージから脱却するためのひとつの節目です。故人の仏道修行の階梯を支援する期間です。共に歩んでいくのです。それが「喪中」といわれるものです。「忌中」ともいいます。「忌」という字は、己の心と記します。己の心が、悲しみの雲に覆われて極めて不安定な中にある、状態です。だから四十九日を迎えると、「忌明け」といって、己の心に覆われていた雲がすっかり取り払われて、明らかに、明るくなるわけですね。
それに対して、故人から少し距離のある人たち、すなわち、故人の友人、同僚、知人、ご近所は、だいぶ係わり方が違ってきます。この人々は、悲しみを受け入れながらも、本来の使命・役割を果たすことも忘れてはなりません。悲しみの空間から、日常の社会生活に戻る必要があります。気が枯れたままではいけないのです。その戻る際に、「お祓い、お清め」が必要になるんですね。元気の気を取り戻さなくてはいけない。お相撲さんが、取り組みのときに大量の塩を土俵や自分にまく行為も、平常の精神状態から脱却し、最大限の力を発揮できるような精神状態にまで引き上げる、ということでしょう。
ですから、葬儀の後に喪主の心配りで「清めの塩」を配布するという行為の背景には、相当の意味を見出しますし、たいへん気配りの行き届いたことであろうと思います。ただ、セレモニーホールなどで準備されているお塩が、どのような塩であるか明らかでないのであまり勝手なことは言えませんが、できれば、海水(潮)からできたお塩、それもきちんと神仏の御前で御祈願されたものが有効です。菩提寺や神社から戴くか、家庭の神前仏前にお供えされたものを使用しましょう。
もともと、祓い清める力を持つのは、あの「海」ですよね。「潮」です。そこから「塩」を代用品として使用するようになったような気がします。川の流れは大海に注ぎ込み、全てを洗い清めてくれます。「水に流す」って言葉もありますね。何も無かったことになっちゃうんです。
現代は、ストレス社会といわれますが、そういう意味では、現代人は万年「穢れ(気枯れ)」状態かも知れません。神聖なお塩で祓い清めて、すっかり元気の気を取り戻しましょう!!
蛇足ですが、長年訪問販売の営業をやっている私の友人は、ストレスの「ス」の字も知らないやつです。いつ会っても元気いっぱい。今、そのわけが解りました。
毎日、訪問先のお客さんから大量の塩をまいてもらっているからですよ、きっと。
・・・しょっぱすぎ?!
あまり気にしていなかったことですが、ここ数年、様々なシーンでこの「清め塩」について質問を受ける機会が増えてきました。目くじらを立てるほどのことはないにせよ、日本人にとって大切な心の置き方にも関係するような気もしますので、少し考えてみることにします。
どこの宗派か知り得ませんが、「死は穢れではないから、清める必要はない。」ということで、葬儀のときに参列者に渡す「清め塩」を廃止する旨の働きかけを強力に推進されているようです。私もセレモニーホールのロビーで、その旨の看板を何度か見かけました。
いろいろと調べたり聞き及んだりしているうちに、このような廃止運動の背景には、次のような根拠があるようです。
1.清め塩は仏教的根拠がない。まったくの迷信・因習だから。
2.故人への差別・冒涜である。
3.差別の温床になる迷信・因習である。
残念ながら、これら三つの根拠は、根拠として成り立っていません。根っこのところの誤った解釈から発生しているようで、これにひとつひとつ対応していると、問題とすべき視点がぼけてしまいますから、避けることにします。
まず、「穢れ」とは何なのか?から考えてみましょう。学生の頃、宗教学の先生から教わったことは、穢れは「気が枯れる」という意味であるということでした。「気が枯れる」、すなわち「気枯れ」ですね。ではなぜ、気が枯れてしまうのか?
私たち人間は非常に精神的な生き物です。心が世界を成り立たせていると言ってもいいでしょう。ただし、人の心は時として弱いものです。様々な逆境に出会うたびに、ド~ンと落ち込んでしまいます。「元気」のき、これが無くなってしまう。
人の「死」は、「けかれ」の最たるものでしょう。諸行無常、会者定離と充分わかってはいても、いざ愛するものとの別れがおとずれたら、私たちは、極度の気枯れにおちいってしまいます。親族・知人の死に際し、極度の悲しみに心を覆われてしまう。私たちが神仏より戴いた命の輝きを、十分に発揮することができなくなります。光化学スモッグに覆われてさえぎられた陽の光です。まさに「穢れ」以外の何物でもない。
遺族親族に覆いかぶさるこの悲しみというスモッグは、四十九日という時間をかけて徐々に癒されていくことになります。人の心のダメージから脱却するためのひとつの節目です。故人の仏道修行の階梯を支援する期間です。共に歩んでいくのです。それが「喪中」といわれるものです。「忌中」ともいいます。「忌」という字は、己の心と記します。己の心が、悲しみの雲に覆われて極めて不安定な中にある、状態です。だから四十九日を迎えると、「忌明け」といって、己の心に覆われていた雲がすっかり取り払われて、明らかに、明るくなるわけですね。
それに対して、故人から少し距離のある人たち、すなわち、故人の友人、同僚、知人、ご近所は、だいぶ係わり方が違ってきます。この人々は、悲しみを受け入れながらも、本来の使命・役割を果たすことも忘れてはなりません。悲しみの空間から、日常の社会生活に戻る必要があります。気が枯れたままではいけないのです。その戻る際に、「お祓い、お清め」が必要になるんですね。元気の気を取り戻さなくてはいけない。お相撲さんが、取り組みのときに大量の塩を土俵や自分にまく行為も、平常の精神状態から脱却し、最大限の力を発揮できるような精神状態にまで引き上げる、ということでしょう。
ですから、葬儀の後に喪主の心配りで「清めの塩」を配布するという行為の背景には、相当の意味を見出しますし、たいへん気配りの行き届いたことであろうと思います。ただ、セレモニーホールなどで準備されているお塩が、どのような塩であるか明らかでないのであまり勝手なことは言えませんが、できれば、海水(潮)からできたお塩、それもきちんと神仏の御前で御祈願されたものが有効です。菩提寺や神社から戴くか、家庭の神前仏前にお供えされたものを使用しましょう。
もともと、祓い清める力を持つのは、あの「海」ですよね。「潮」です。そこから「塩」を代用品として使用するようになったような気がします。川の流れは大海に注ぎ込み、全てを洗い清めてくれます。「水に流す」って言葉もありますね。何も無かったことになっちゃうんです。
現代は、ストレス社会といわれますが、そういう意味では、現代人は万年「穢れ(気枯れ)」状態かも知れません。神聖なお塩で祓い清めて、すっかり元気の気を取り戻しましょう!!
蛇足ですが、長年訪問販売の営業をやっている私の友人は、ストレスの「ス」の字も知らないやつです。いつ会っても元気いっぱい。今、そのわけが解りました。
毎日、訪問先のお客さんから大量の塩をまいてもらっているからですよ、きっと。
・・・しょっぱすぎ?!
本質を突くならば、
「葬式には、仏教的根拠がない」
日本古来の葬儀のありように、仏教が覆いかぶさってきた。だから、日本古来の葬儀のありようの中に、塩が必要だったから、そのまま仏式の葬儀にも保存されているのだ。
勉強不足もいいとこ!
強いつながりを持つ業者や、
人権啓発を仕事とする行政の関係課までもが
大型キャンペーンを展開します。
このことが、日本の精神伝統をぶっ壊していくんじゃ
なかろうかと心配です。
また、神道という宗教を「差別を生む宗教」と非難しています。
こういう所業は、ある思想が別の思想を裁く、という観点で、非常に差別的です。
差別の温床ですねえ。
『魂がふるえるとき~宮本輝編・心に残る物語ー日本文学秀作選』トビラかきより
「差別」という言葉に触発されて上記の文章が思い浮かびました。
後天的、社会的、文化的な性差反応をジェンダーと言いますが、一般的な差別意識には、加えて時代性もあろうかと思います。私たちの世代にとっては「アメリカインディアン」は差別表現ではなく、むしろ「朝鮮人」が差別としてタブー視されていました。
差別について語る、あるいは指摘をするときはこのトビラかきのような配慮がほしいものだと常々考えます。
ちなみに、興味深いのは、近年刊行の新井満「千の風になって」では、初版の時は帯や本文に「アメリカインディアン」という言葉が散見されたのが、最近の重版では「ネイティブ・アメリカン」となっていました。「アメリカインディアン」が差別語として定着する過渡期にあったのでありましょう。
もうひとつちなみに、冒頭の『魂がふるえるとき~宮本輝編・心に残る物語ー日本文学秀作選』に収録されている、樋口一葉「わかれ道」と泉鏡花「外科室」は、同時代に書かれていながら、前者は現代的な口語調、後者は格調高い文語調と対照的であり、なおかつ一葉の近代性に改めて気づかされる内容であります。
どちらも時代を超えて声に出して読みたい日本語であります。
何にも頭に残ってないと思って再度ひもとけば、
案外記憶のひだは反応するものですね。
それに、新しい発見も多々あって、少し嬉しかったりもします。とはいえ、相対的にはどうしても後回しになりますね。
最近は、言葉のひとつひとつの表現に興味がいきます。学校で学ばなかった表現がてんこ盛りですから、面白いです。
言葉を生み出すものは、人の心。
自己中心的な心から産み出たものが、
人を傷つける言葉、すなわち差別語につながっているとすれば、言葉そのものの表記だけに問題があるのではなくて、私達のおごり高ぶる心をはじめとする様々な煩悩との対処こそ、
きちんと問題にすべき事柄なんでしょうねえ。