こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

お疲れ様でした。ご主人によろしくお伝え下さい。 合掌

2013年10月29日 | 仏教

大正十一年生まれの檀家のおばあちゃん。
私が駆け出しの頃から、とってもかわいがってくれていた。

先ほど葬送の儀式が滞りなく終了。
私の祖母(他界)といっしょに、定期的に開く華道の集いに寄り合って、
その季節季節に野山を彩る花々や草木を花材として、
素朴な中にも自然を豊かに表現したお花を活けていた。
華道精神ここにあり!ってかんじの華道教室。

お葬儀の祭壇には、そのおばあちゃんが丹精込めて育てていた花々が、
色とりどりに飾られていて、その当時が思い起こされ、
思わず胸が熱くなりグッときてしまう。

・・・お疲れ様でした。久しぶり会ってなかったご主人にも会えますね。
よろしくお伝え下さい。                       合掌

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2013年10月27日 | 仏教

今年の地区文化祭も終了し、

例年のように、文化祭で展示された自慢の菊がお寺の玄関を飾るためにやってきた。

今年は、害虫の駆除がうまくいかなくて~、とおっしゃってたが、

いつものように、美しい大輪を誇らしげに見せてくれている。

しばらく楽しめる。                    合掌

   

            

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御大師さまを盛んに信奉する禅寺。

2013年10月21日 | 仏教

親戚の初七日供養焼香のため、
平戸にある臨済宗のお寺、是心寺へ参拝。
焼香のため、内陣へ歩み寄ると、
ご本尊の左脇段に、弘法大師空海の座像をお祀りしてあるのが目に入った。
よく手入れされたとてもりっぱな座像だ。境内には、御大師さまを祀る大師堂まで建っている。
ややもすれば、真言宗のお寺さんよりも丁重にりっぱに祀られてはいないだろうか?
ご住職にそのことを尋ねると、ここは、昔からの大師霊場の札所であったとか。
いまでも、篤信の信者さんが多くいらっしゃるらしい。
ご住職は、「御大師さまは、宗派を超えた存在ですから、私どもも大切にお守りさせて頂いております」
とおっしゃった。

ここにきて、御大師さまのキャパの広さを思い知らされた。          

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足の裏にわずかばかりの皮を張りつけるがよい

2013年10月15日 | 仏教

自分と社会

  秋の収穫をみんなで喜び祝う。
神様におこしいただき、おもてなしを施して、感謝の念を表現する。
私たち日本人が古より伝えてきた畏敬と謙虚さの姿、秋祭り、おくんち。
実は、この大いなるものへの畏敬と感謝が、私たちの幸福をもたらしている。
 仏教の論書の中に、「この地球上を革張りにしてしまおうとしても、獣の皮は足りない。そんなことよりも、足の裏にわずかばかりの皮を張りつけるがよい。そうすれば、世界中を革張りにしたのと同じになる。」
という言葉がある。私たちは、現状を悲観すると、国家が悪いとか、社会が悪い、世の中を変革しなければ、とか、ご近所が悪い、家族が善くないとか、いろいろ考えるけれど、それは決して解決につながるものではない。もっと大事なことがある。
そう、私自身のことである。私自身のものの見方考え方が変革できれば、全てが変わる、と論書は主張する。そうすれば、やがて社会全体が革張りになるんだと。

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・・・ナイシホウカイ ビョウドウリヤク、ウヤマッテモオスゥ~

2013年10月10日 | 仏教

乃至法界平等利益

 乃至法界平等利益(ないしほうかいびょうどうりやく)。
漢字ばかりが並んでますがイヤにならないでくださいね。
これは、ご法事やいろんな法要の中でお坊さんが読み上げる「願文」とか「回向文」とかの
最後によく出てくる言葉です。(・・・ナイシホウカイ ビョウドウリヤク、ウヤマッテモオスゥ~)って、
聴かれたことありません?
ともあれ、「このおつとめの功徳は、この世のすべての人たちの幸せにつながっていきますように。」っていう
強い願いのこもった言葉なんです。他人の心を自分の心として、人が悲しめば自分も悲しみ、人が喜べば自分も喜ぶ、といったとても崇高な境地です。
 しかし、これは言葉で言うほど簡単ではありません。テレビのニュースに流れる事件や災いを聞きながら、
私たちは、一時的には悲しみを共感する心を持っています。しかし、所詮は他人事。ニュースを聞いて幾ばくも経過しないうちに、夕餉の団欒を楽しく平和に過ごすことができます。これが、少しでもご縁のある関係者だったら、ご飯も喉を通らないはずです。
  私たちはどうしても自己中心的な生き物です。
だからこそ、この「乃至法界平等利益」という言葉があえて必要になってくるのだと思います。

どうぞみなさん、心のこもったお唱えを心しましょう。

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