カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

小澤 勲 『痴呆を生きるということ』

2013-12-03 18:10:29 | 本日の抜粋

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 規範からの逸脱は、規範へのとらわれからの自由である。身体的無惨も、見る者によっては人間を限界づける身体性からの超越と映る。そして、何よりも、ともに過ごした時間が、悲惨を「この世ならぬもの」
「聖なるもの」に変化させ、いとおしさを生む。

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 彼らは、依存したいという思い(喪失感)とそれを拒絶するこころ(攻撃性)という、現実には解決不可能な、相反する二つの思いに引き裂かれている。(中略)その意味で、もの盗られ妄想は精神病理現象であると同時に、新たな生き方の発見でもある。

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しかし、老年期に特異な問題は、最も適応する力が衰えた時期に、最も厳しい適応が要求されるところにある。

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 まず、喪失感に焦点を合わせる。こころのありかを考えれば、攻撃性以前に、あるいは表面に立つ攻撃性の根元に、喪失感があるからである。つまり、妄想に、あるいは攻撃性にどう対応するかではなく、彼らの喪失感、つまり寄る辺ない不安と寂寥にどのように寄り添えるかを、第一に考える。

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 たとえば、精神安定剤や眠剤の大量投与は過鎮静を招き寄せる。その結果、確かに周辺症状は消失する。しかし、そこには笑顔を喪い、怒りの表情さえ見られなくなり、ぬけがらになった老人が残される。このような対応を治療とよぶべきではない。周辺症状の意味を問うことなく行動制限や身体拘束あるいは乱暴な言葉で対応するようなケアもまた同罪である。

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長年痴呆のケアにあたってきて、痴呆という病が徐々に生きるエネルギーを殺いでいくという事実こそが痴呆ケアのもっとも困難な課題だと考えるようになった。

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痴呆という病を受容すべきなのは痴呆を抱えた本人だけではない。彼らとかかわる人たちが、さらに彼らの住む地域が、そして社会全体が、彼らを受容できるようになれば、周辺症状は必ず治まり、かれらは痴呆という難病を抱えても生き生きと暮らせるようになるはずである。

 小澤勲 『痴呆を生きるということ』より 岩波新書

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この本は、末期癌に侵されていることが判明された中で書かれた。
いわば小澤氏の遺言である。

徳さん、痴呆老人に対する想いがコトリと変化したのだけは確か。

最後の抜粋部は、現状がそうでないだけに痛々しく響く。



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