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* もう、そろそろ、この世をおさらばしたいのかもしれないなあ。
弱音を吐いているわけではないんです。
「風になりたや 山のかぜ 里の風……」と、すこし身勝手がしたくてね。もういいんじゃないの、と、どこからか見知らぬ私が笑いかける、この中途半端な存在へ。
まあね、これは昨今に限ったことではありませんけど。人間一匹、ひろい自然界で、自在に風と遊びたい。いのちのまにまに、天へ、地へ、です。
* 人間は強欲だけど、しかし環境の肉体的汚染・精神劣化を超える技術と思想ぐらい、国境を越えて生み出すと信じたい。
内外の呼応が断たれ、得体の知れない恐怖に閉ざされる不安を、三十代の女や男から聞かされる。もっと若い世代は、親世代の不安が生活様式化されていて、いつも一人ぽっちだという苦痛を。家庭でも学校でも居住地でもそのとおりであって、若く幼い自分について自問する自在な空間がない。あるのは外界にあふれる快楽。大人によって売られるそれら。
かつてわたしらの幼少年期には、子供の快楽は気ままな遊びとして外化する余地がありました。侵略の谷間に。今、子供の快楽は大人が商品化して世界に満ち、お金と引きかえです。子どもだって、そのことを知っている。非現実こそ、残された現実界だと感じとってしまう幼少年たちの追いつめられた精神を、少年院へ送るのは大人界の罪だと、私は思っています。
* 働くことは労働とはちがう。それは愛すことだよ、いのちを。幸子さん、あなたのように。働くことはいのちを愛すこと、いのちを耕すこと。働く文明が欲しい。
森崎 和江 『見知らぬわたし 老いて出会う、いのち』より 東方出版
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森崎和江さんの老境の書だ。
徳さん、例によって、言うことはございません。
ただ読んで感服するだけだ。
幼少期の感性はやがて現実の前に毟り取られる。
それが当たり前のように思わされてきた。
それが成長ということ、大人になることといって。
森崎さんは、日本の植民地下の朝鮮で幼い感性を育てられた。
しかし、その感性が日本に帰国してからことごとく踏みにじられた。
日本では個が個でないよ。女が女でないよ、、、。
幼い頃の感受性を核として、日本社会のあり方を地道に問われて半世紀。
森崎さん、見事に老いていらっしゃる。
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