カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

世界が完全に思考停止する前に

2009-03-22 18:56:41 | 本日の抜粋

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*政治家もメディアも最近盛んに口にするのは「日米同盟」。たぶん今日の朝日の紙面にも、きっとどこかにこの言葉が掲載されている。でも変だな。有事を想定した日米関係の正式名称は、以前なら日米安保条約で同盟とは言わなかった。確かに「同盟関係」との言い方はあったが、いつのまにか二「関係」に二文字が消えている。「条約」を「同盟」に換えることで、変わったニュアンスは難だろう?

*強いに越したことはないし、継続しないよりはいたほうがよいけれど、でも弱くて持続しなくても、悲観する必要はきっとない。
 普通でよいのだ。 
 「だって王様は裸だよ」とつぶやいた子供に、人一倍の使命感や勇気があったわけではない。普通に感じ、普通に首を捻り、普通に疑問を口にすれば、最悪の事態はきっと回避できる。まだ間に合う。ぎりぎりだけど、きっとまだ間に合う。

*唐突だが僕はトイレに行っても手を洗わない。オートで水が出る仕組みなら洗う。でもそうじゃなければ洗わない。だってどこの誰とも知れないおおぜいがの人が、それぞれのオチンチンを触った直後の指先で触れた蛇口に、わざわざ触りたくないからだ。数年前までは僕も無自覚に洗っていた。でもある日ふと気がついた。どう考えても不合理なのだ。(中略)「手洗い」という言葉が示すように、要するに一定量で思考が停止して、トイレは手を洗う場所だと無自覚な思い込みになっている。

*九・一一以降のアメリカは、オウム以降の日本に重複する。テロの不安に怯えた国家共同体は、過剰な危機管理意識を発動し、正と邪、善と悪などの対立概念に単純化された二元論に収斂しながら内部的結束を強め、アメリカの場合は、仮想敵であるイラクへの先制攻撃へと暴発した。
 この構造はそのまま、救済という善意を燃料に被害妄想を肥大させ、他者への想像力を失い社会に攻撃を仕掛けてきたオウムと、多くの因子を共有する。

 つまり日本社会は、オウムによってオウム化しつつある。

*遺族や被害者が憎悪や報復感情に捉われることは当たり前だ、なぜなら彼らは当事者だ。この感情を社会が共有しようとするとき、一人称であるはずの主語がいつのまにか消失する。本当の憎悪は激しい苦悶を伴う。でも主語を喪った憎悪は、実のところ心地よい。だからこそ暴走するし感染力も強い。
 
森 達也 『世界が完全に思考停止する前に』より 角川書店

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マスメディアや国家によって誘導、洗脳された我らが思考傾向は、現在進行中の地球規模での環境破壊と源を一にしている。
主語が一人称でないのだ。
私ではなしに、我々なのだ。
それも奇妙な我々であって、我々の中に私は入っていない。
常に責任は、私以外の連中の仕業となる。
巧妙な免罪符を我々は(この場合は私が入ってますよ)手に入れたもんだ。

「ぎりぎりだけど、きっとまだ間に合う」

これは森達也さんの悲痛な叫びだ。


オチンチンの話は徳さんも早速実行することにした。
神の手と極々少数の人が評価してくれている徳さんの手が、不特定多数のおっさんのオチンチンに汚染されていたとは!!


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