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被災地で

2012-03-11 15:15:22 | daily
今日は東日本大震災からちょうど1年です。

私は、3日前木曜日に石巻から帰ってきました。

こんなことでもなければ訪れることがなかったかもしれない東北の街。
しかし今回は本当に現地に行くことの意義を痛感しました。

私は6日間滞在し地域の支援機関のお手伝いをしてきました。
支援機関の方々も被災者で、事務所は浸水被害に遭い数日は自宅に帰ることもできなかったとのことです。
冬の東北で、衣類も濡れ電気も電話も通じないままの数日間は想像を絶するものがあります。

他の地域から来た支援者とチームを組んで何軒かのお宅を訪問しました。
牡鹿半島の小さな集落の仮設住宅にも行き、いろんなお話を伺いました。私たちは一応公的な支援機関のお手伝いで行ったのですが、知らない人から見れば「うさんくさい」と思われても仕方ありません。
けれどもみなさん大変親切にしてくださり、室内に招き入れお茶を出してくれたお宅もありました。

被災時の状況はそれぞれで、家族と再会できたのは数日後であったり、家族での生活が分断されたり、避難所での生活、仮設での生活、自宅に戻った方にもたくさんの苦労があったこと、公的支援だけに頼らず地域や自分たちの力でもいろんな努力をしていることを知ることが出来ました。

私は東北を訪れたのも初めてですが、漁師さんや船員さんのお話を伺うことも初めてで、テレビや新聞だけではわからない人々の暮らしを実感しました。
福山くんの歌ではないですが、まさしく「生きてる生きてく」ですね。

あるご夫婦のお話の中に印象的な言葉がありました。
「悲しみがわかない」というのです。
親族や船員仲間の家族が多数亡くなられて、現実として受け止められないとのことでした。
悲しみを表出できない状況でもあると思います。

この地域はボランティアもほとんど回って来ず、救援物資もあまりなかったとのことでした。自治会がほとんど機能しておらず、ある意味孤立している地域でした。
私たちにみなさんがたくさんのお話をしてくださるのは、それらをはき出すところがないからなのだと思えました。
高齢の方の言葉は半分くらいしか理解できないのですが、最後においとまするときに「聴いて下さってありがとう」とおっしゃった方が何人かおられたのは印象的でした。

地域や被害状況、経済格差がもたらす被災者の温度差やその他の課題など現地に行ったからこそ見える課題もありました。
阪神大震災との大きな違いは、被災した場所にまた家などを再建できないことです。
このことが復興を一層遅らせています。

ボランティアの課題も見えました。
私自身も含め自己満足的な状況があるように思います。
派遣先の管理者の方からもそんなお話がありました。
私は「ボランティア」については、心構えやメリットデメリット、体系や指示系統など体系的な学問として確立していく必要があるように感じます。

仕事の合間に、石巻市街、女川、雄勝、そして大川小学校の視察にも行きました。
がれきは撤去され、一カ所に集められていました。これらは遺体の捜索後、名前のあるものや写真をボランティアが分別したあとであるとのことで、多くの方の多大な力、地道な力を感じることができました。

大川小学校は74名の児童が犠牲になった小学校です。河口から5kmほど北上川を上がった川の側にあります。周囲の集落はすべて流されて、そこに校舎がぽつりと残っていました。
その日は慰霊祭の日で遺族の方が祭壇に花を手向けに来ていました。私はここに来たときだけは自然と涙が出てきました。
後で知ったのですが、犠牲になった子どもさんにchieeと同じ小学校5年生で同じ字、同じ名前の子がいました。

東北の沿岸はリアス式海岸が続き、どこも風光明媚な美しい風景が広がるところです。
この地形が市街地が広がる地域に津波を増幅させました。
今まで町を育んできた海が牙をむきました。でもこれからもこの海と共存していかなければいけないのです。
みなさんがこの現実を受け止め受け容れる日が訪れるのでしょうか…。

石巻を離れる前日に後任者が来て引き継ぎがありました。
各地からの支援者が入れ替わりいつも違うメンバーなのですが、初めて会った方々と寝食を共にし、不思議な合宿生活でした。

仙台駅の周辺は人も街も何もなかったように動いているように思えました。
パチンコ屋さんがたくさんあるのですが、不思議と駐車場は満車です。

行って分かる光と影があり、現実がありましたが、私たちに出来ることは関心を持ち続けること、何らかの形で支援を続けること、そして伝え続けることなのかなと思います。

私の石巻行きは、うーちゃんに大阪に来てもらわないと叶わなかったことです。
家族の理解や職場の理解もあってのことです。
みなさまに心より感謝しています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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