岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【皇室】御下賜金って。   石井十次その38

2005-03-29 10:50:00 | 石井十次
御下賜金とは何か。
相撲の天皇杯のことを賜杯という。
これは正確に書けば、御下賜杯ではないだろうか。
詳しい方は教えていただたい。

私は御下賜金を以下のように理解している。
「立派な行いをしている人への皇室からのお金のプレゼント」
そして、皇室が寄付をするのだから、国民はこぞって寄付を
すべしということになる。
効果は絶大である。現在でも社会的な事業を行っている団体に
この寄付がある。しかし、戦前では意味が違ってくる。
国民は天皇の赤子といわれた。ということは親がよい子に
ほどこすことの一つが御下賜金ということになる。
社会保障制度をつくることなく、その補完的役割の一部を
御下賜金が担っていたのである。

例えば、静岡の聖隷学園のホームページに書かれている内容を
みてみたい。

「1937(昭12)年3月、彼らはこの荒野を安住の地と定め、
聖隷保養農園と改称した。しかし、またも反対運動が起き、
その激しさは施設襲撃の直前にまで及んだ。
加えて経営の困難は日毎に進み、百人近い患者と職員を抱え、
食べ物の調達さえできなくなった。1939(昭14)年12月24日、
園長はついに施設の閉鎖を決意した。
翌25日のクリスマスの日、思いもよらぬことが起こった。
天皇陛下より御下賜金を拝受し、潰えんとした事業は劇的に
救われたのである」

このようにして、今の聖隷学園へと発展するのである。

十次の岡山孤児院も同じような危機を何度も乗り越えているが、
この御下賜金の効果は絶大であったと考えられる。
ではどのように、御下賜金が岡山孤児院に寄せられたか。

1903年(明治36年)東宮より金100円。
1904年(明治37年)天皇皇后より金2000円。
1905年(明治38年)天皇皇后より10年間に渡り毎年金1000円。
1906年(明治39年)皇后より凶作地収容児見舞いとして、
金100円。
1909年(明治42年)閑院宮より御菓子料金50円。
1910年(明治43年)韓国太子より金100円。
         天皇より金500円。

また、内務省からも、慈恵救済事業助成金として、
1910年(明治43年)1250円
1911年(明治44年)1500円
受けとっている。

十次の気持ちはどうだったろうか。名誉なことと感激したこと
だろう。天皇制とキリスト教会の関係は問題になっていなかった
時代である。昭和の戦時体制になっていく過程で、各宗教が
戦争に協力せざるをえなくなり、戦後に批判されるわけで
あるが、それはまだまだ先の話だった。

皇室や内務省からの御下賜金や慈恵救済事業助成金を基金に
始められて事業といえば医療では済生会病院(社会福祉法人
恩賜財団 済生会支部済生会 ) そして東京慈恵医大病院(
明治20年皇后陛下を総裁に迎え「慈恵」の名を賜り
有志共立東京病院を東京慈恵医院に改称)などである。
名前からおおよそ推測ができる。
(ともにホームページより)

今は昔の話ではあるが、戦前の社会福祉の状況を知る上では
大切なことだと思う。

岡山孤児院は、このように皇室からお墨付きをもらったことで
全国からの募金活動が大いに進み、海外からは米国の教会を
通じた募金キャンペーンの成果が著しかった。
年間14億円(現在の貨幣価値で)もの資金の多くが
このようにして集ったのである。

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2 コメント

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御下腸金 ( きよおか)
2005-03-30 00:18:21
クリスチャンである十次がなぜこんなに御下腸金に感激するのだろうと思っていました。

今回の記事でフムフムという思いです。

明治のキリスト教について山谷省吾が「日本文化や思想に対して協調的であって、極端な教派を除いては、排他主義はみられなかった」と記した一文を読むにつけても、その時代背景を認識する大切さを、今さらながら感じています。
コメントありがとうございます。 (岩清水)
2005-03-30 15:54:07
きよおか 様

コメント、ありがとうございます。

明治期のキリスト教については、

まだまだ学習が足りません。

現在のキリスト教徒の数からは

想像ができないほど、教育や

思想の面で影響力があった

のではと推察しています。

興味がつきませんね。