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岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

『みちのくの道の先ータマシン・アレンの生涯』 目黒安子著

2012-11-27 10:11:22 | 
教文館 2012年4月25日発行

タマシン・アレンさんは1890年にアメリカ、インディア州フランクリン市に生まれる。
1915年。バプテスト宣教師として来日。
1929年、盛岡へ。1938年久慈へ。
戦時中は強制収用所収監。アメリカへ強制送還。
1947年、再来日、精力的な活動開始。
1976年、盛岡にて逝去。

アレンさんの東北での活動を読み進めています。
東北農村伝道の厳しさがよくわかります。
それ以上に当時(昭和初期)の東北の過酷さに唖然とします。

東北の大飢饉(1931~36年)、昭和の大津波(1933年)による東北の人々の悲惨さが書簡として残っています。

当時の子どもたちの様子です。アレンさんは徒歩で救援活動をしています。

「薄汚れた黄色な顔色をしていても、礼儀正しくまじめな子どもたちの表情を見て、どんなに飢えているのかがわかり、私の顔に涙が流れました。それから校長先生は一人一人の名前を呼んで、それぞれの家庭に必要なものを教えてくださいました。ボロボロの着物の子どもたちが一人ひとりおずおずと前に出てきて、何度もお辞儀をして食べ物や衣類の包みを小さな手で受け取りました。私は包みを渡しながら立っていたのですが、ウールの洋服を何枚も重ね着をしているのに寒くてたまりませんでした。零下10度の寒さの中で靴も泣く下駄にボロボロの足袋、中には裸足のままの子どもたちもいて私はこころから恥ずかしくなりました」(書簡)


このような文章が続きます。
読んでいて涙が溢れてきます。

「沿岸地域の救助活動から盛岡に戻ってきた後も、ミス・アレンは山深い小さな村や津波に流された漁村の光景を忘れることは出来なかった。流された遺体の傍らで過ごした夜、険しい山の畑や漁村で働き、家庭の仕事に追われる女性たちの忍耐と勇気を愛情の深さを忘れることは出来なかった。男たちは出稼ぎに行く。痩せた土壌を耕作しても収入にはならなかったので、山仕事や漁に出て行き、畑と家庭と子どもたちを守るのは女性たちの役割。寒さと飢えに震えている子どもたち、ボロをまとった裸足の子どもたち、『愛されること』『愛すること』を知らない子どもたちの表情が忘れられなかった」

この『愛されること』『愛すること』を知らないということは、キリストの愛を知らないという意味だと思います。

こうして、アレンは、まだキリスト教が宣教されていない久慈へと移住していきます。

アレンさんは賀川豊彦や新渡戸稲造とも繋がりがありました。

県立図書館で見つけた本ですが、アマゾンでクリックしました。

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