ほとほと通信

89歳の母と二人暮らしの61歳男性の日記。老人ホームでケアマネジャーをしています。

為すべきは労働

2012-12-08 | 信仰
今日は仕事は休みだった。

偶然、昼の2時からEテレの教育に関する対談番組を見て、惹き込まれてしまった。
山形県の山間部にあるキリスト教系の全寮制高校が舞台である。

三年前、東京世田谷区の女子高校からその学校に赴任した校長先生に、教育評論家のような男性が話を聞く…という趣向の番組だ。

中高年男性が二人で話し合う…という地味な番組なのだが、何よりその校長先生の表情に惹かれた。
誠実と教養、率直さと強い意志とが顔に表れていた。
特に40歳過ぎたら、人間は「顔」だと思う。生き方・考え方が全て表れる。

それはともかく、赴任した当時は、東京の学校とのあまりの違いに愕然とした…という。
生徒が校長を「○○さん」とファーストネームで話しかけてくる。
また、生徒がいきなり校長の前に立ちはだかって「先生は何のために生きているのですか?」と真顔で尋ねてくる。

学校の敷地(と言っても囲いは全くないのだが)は10万坪ほどで、そこで一学年25人ほどの生徒と教職員合わせて約100人が共同生活をし、授業の他に農業やブタ・ニワトリの飼育などの仕事もたっぷりある。

まるでマンガかアニメにあるような「学園」のようではないか…と思うかもしれない。

しかし全く違ったのは、校長が読み上げた、何人かの生徒たちの手記の迫力である。
どれも「本当に高校生が書いたのか?」と思われるほど表現力が高く、内面を見つめる眼差しが深い。

だが、確かに彼(彼女)らが書いたのである。
実際にそこで生き、悩み、考えた者でなければとうてい表現し得ない「太さ」があった。
それは、先生に評価されよう、同級生たちに受けよう…という了見では絶対に作れぬ類のものである。

手記を読みながら、校長はしばしば涙ぐんでいたようだった。
聞いていて、私も何度も涙が滲んだ。

校長先生は、自然に囲まれた生活や労働とともに、日々聖書を読む…という生活が、生徒たちの意識の深さ、感受性と表現力の豊かさに繋がっている…と言っていた。

前任の学校でも、生徒たちに聖書を読む機会は多い環境だったらしい。
しかし、あまりの多くの情報や人間関係に囲まれているため、聖書の言葉を生徒たちの心に届けるには、分厚いアスファルトをドリルで掘り下げるような作業が必要だった。
ところが、自然と労働の中で共同生活する生徒たちにとっては、肥沃な土壌に水が沁み込むごとく聖書が心に沁み込んでいく…という。

その比喩が、今の私の心にも沁み込んだ。

心配なのは、そういう環境で育つと、一般社会との適応が悪くなるのではないか…ということだ。

その話も、校長は語った。
確かに「ここの学校の生徒は心に十字架を背負ったようなもの」だという。
青年期にそれだけ「生きるとは何か」「自分とは何か」と問い詰めれば、例えば大学入学と同時に周囲の学生たちとのカルチャーギャップにぶち当たる。

「しかし、それは必ず乗り越えられるのです」と、校長は言った。
若いうちに深く考え、人間と関わった子供たちには、強い根が張っているので、一時的に寒風に晒されても、乗り越える力が育っているのです…、と。

その学校は、内村鑑三の薫陶を受けた創立者が30代半ば、昭和の初めに創立した。

創立者が朴訥とした書体で残した、学校の教育理念が映った。



読むべきは聖書
学ぶべきは天然
為すべきは労働


番組が終わった頃、私の職場から連絡があった。

今日、往診医により、感染症の終息が判断された…ということだった。