日が傾こうとしていた。
宮殿の石畳を董太后と何皇后が肩を並べて歩いていた。
二人は帝の見舞いを終え、大本営に向かっていた。
その後ろには取り巻きの者達が大勢付き従っていた。
何れも侍女と宦官であった。
行き交う者達が二人の姿を目にすると、遠くからでも、慌てて道を譲った。
董太后はいたって上機嫌。
帝の姿を目にして、その様子にホッとした。
長い昏睡から目覚めただけで、言葉を一言も発する事は出来なかったが、
太后皇后二人を見て微かに頷いた。
その目に知の色を感じた。
後遺症の心配は不要らしい。
治療にあたっていた華佗が断言した。
「あとは少しずつ食事を増やして体力を回復させれば、いずれ喋れるようになります。
起きて歩くには、もう少しかかります。辛抱強く見守って下さい」
董太后は肩の荷が下りた。
帝が伏せてより、その代行をしていた。
大概な事は三公九卿の決裁で済むので、意外と代行は暇であった。
それでも帝の決裁を必要とする上奏もあり、気だけは抜けなかった。
歩みながら、「もう少しの辛抱」と自分に言い聞かせた。
帝が復帰すれば、太后として気楽に生きられる。
政治の矢面に立つ必要もなくなる。
そう思うと、心が浮き立ちそう。
気持ちを読み取ったかのように何皇后が言う。
「これで一安心ですわね」
油断せぬように注意を喚起した。
「ワラワは一安心だけど、ソナタは違うわよ。
帝が最初に手をつけるのは、毒殺未遂の真相よ。
誰かが裏で操っていたのではないか、とね」
途端に皇后の身体がビクッと震えるのが、見なくても感じ取れた。
「それは」怯えた。
「分かっています。
ワラワは少しも疑ってはいません。
何もなければソナタの皇子が後継者です。
毒殺する必要なんて、これっぽっちもありません。
犯人扱いは大きな間違いです」
皇子は二人いた。
長子は何皇后が産んだ劉弁。
次子は王美人が産んだ劉協。
問題は嫉妬に駆られた何皇后が王美人を毒殺した前歴にある。
誰もが帝毒殺未遂を王美人毒殺と関連付け、「これも何皇后の仕業」と噂した。
「皇子の母君を罪に問うのは聞こえが悪い」との声があり、
矛を収めた帝であったが、その怒りは今もって消えてはいない。
何皇后は極めて旗色が悪い。
何皇后が心底からの言葉。
「そのお言葉、嬉しゅう御座います」深く感謝した。
これまで何につけ対立していた二人だが、帝毒殺未遂を機に手を携える事になった。
どちらかと言うと、何皇后の方から擦り寄って来た。
「帝の心証が悪いので、董太后の庇護を求めている」とも言えた。
理由はどうあれ、この頃は擦り寄る何皇后が可愛く思えた。
何皇后に言い聞かせた。
「何としても裏で操っていた者を捕らえましょうね」
「ええ、絶対に」
関係した宦官達が服毒自殺してしまったので、手掛かりを失ってしまった。
それでも太后皇后は諦めず、当局に調査を命ずると同時に、
影響下にある者達をも動かした。
今だ真相は闇の中だが、はっきり分かった事が一つ。
「服毒自殺した者達は帝毒殺に到る憎悪、恨みを全く持っていなかった」
と言うことは、彼等の個人的な感情からの犯行ではなく、別の事情から。
「誰かに唆された、命じられた、強要された、の何れか」としか思えない。
それよりも今は目前に迫った危機。
鮮卑の襲来に対処せねばならない。
足を速めた。
何皇后も歩調を合わせた。
帝が復帰するまでは女二人が後漢の舵取り。
少しの間違いも許されない。
そう思うと、より足が速まった。
大勢が大本営に出入りしていた。
何れも急ぎ足であった。
様子から、事態の急変は感じられない。
入るや、小娘が駆け寄って来た。
何美雨。
先ほどと変わらぬ無邪気振り。
まるで主人に懐く子犬のよう。
二人の前に両膝をついて、見上げた。
「帝は如何でしたか」
董太后は手を差し伸べ、小娘を立ち上がらせた。
「滋養をつければ大丈夫だそうよ」
その言葉に安心したのか、小娘が深く頷いた。
「よかった」と言い、姿勢を正して、「それでは申し上げます」と、
太后皇后が留守にしている間に起きた事を、一つ一つ事細かに説明を始めた。
どこから何の報告が上がったのか。
それに大本営詰めの高官の誰それが、どのように対処したのか。
見聞きした事を手短に要領良く説明した。
これまでの無邪気な小娘が嘘のよう。
戻って来た大将軍への処遇も、他人事のように伝えた。
太后皇后を迎えるべく扉近くに集まった高官達が、小娘の説明振りに圧倒されたのか、
互いに顔を見合わせた。
中には恥じ入るように、俯く者もいた。
董太后は意地悪く問う。
なにしろ大将軍は小娘の実父。
「敗走して戻った大将軍の処遇だけど、どうしようかしらね」
小娘の顔色は変わらない。
大人びた口調で答えた。
「ただの将軍であれば更迭でしょうけど、相手は大将軍。
何進どうのこうのではなく、大将軍という官位だけは汚せません。
後漢大国では帝に次ぐ地位です。
徒や疎かには出来ません。
病気として官位を返上してもらい、当分は療養してもらってはどうでしょう。
もし処分をお考えなら、帝の裁可を仰ぐ必要があります」
傍近くに居た何皇后は、姪のまるで官僚のような言いように表情を一変させた。
しかし言葉にはしない。
彼女にとっては姪も実兄も道具でしかないのかも知れない。
董太后は小娘の背後に控える高官達を見遣った。
誰も小娘に異議を唱えない。
処分となれば、確かに帝の裁可を必要とするだろう。
「そうよね」と同意するしかなかった。
小娘が続けた。
「最後に一つ。
さきほど董卓将軍より報告が入りました。
黄河の南岸より北岸へ渡河している大きな一団があるそうです。
確認のために将軍は新たな物見を発しました」
董太后は思わず表情を崩した。
「南岸から北岸となれば、鮮卑の撤退以外ないわよね」
「まず間違いなく撤退でしょう。
でしょうが、確認が必要です。
将軍だけでなく、袁紹や曹操、他の部隊からの報告も待ちましょう」
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行き交う者達が二人の姿を目にすると、遠くからでも、慌てて道を譲った。
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何進どうのこうのではなく、大将軍という官位だけは汚せません。
後漢大国では帝に次ぐ地位です。
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誰も小娘に異議を唱えない。
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黄河の南岸より北岸へ渡河している大きな一団があるそうです。
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