考えるのが好きだった

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どっちのアタマが良いか--感覚世界と抽象世界

2006年10月11日 | 物の見方
 養老先生は講演で、「猫と人間とどちらがアタマが良いか。猫はコトバをしゃべれないからアタマが悪い、と言う人がいるが、自分はわざわざ出てきてしゃべっている。ウチの猫はメシを喰って昼寝をしている。どちらがアタマが良いか、はっきりしている」と、たぶん笑い話がてらおっしゃったそうだ。(この話は、結構あちこちでしてるんじゃないかと思うけど。)

 この「アタマの良さ」は、「アタマ」が違う。猫のアタマは、私のコトバで言うと「感覚世界」に根ざしたアタマの良さ、つまりは個に関わる「違い」を重視する世界の住人としてのアタマの良さである。対して、コトバを操るアタマの良さは、「抽象世界」に属するもので、「同じ」を捉える、人間独自の世界観、猫が持たない世界観におけるアタマの良さである。

 だから、養老先生のおっしゃる猫のアタマの良さは、個に立脚した感覚世界でのアタマの良さで、対する養老先生は、抽象世界のアタマの良さを発揮して講演しまくっているのだが、養老先生独自の感覚世界(例えば、虫取りに行きたい、という願望など)は見事に無視されているから、「ウチの猫の方がアタマが良い」という結論に達するのである。
 笑い話の解説ほどつまらないものはないが(笑)、これには「概念の取り違え」があるのだ。だから、面白い。

 まあ、あらゆる点で、感覚世界と抽象世界はこんな具合に対立する。或いは、調和することもあるだろう。この考え方で、学校で問題にされることでも何でもほとんど説明がつくと思う。この対立は、個と集団の対立とも言えるのだ。(もちろん、個は感覚世界、集団は抽象世界。なぜなら、集団は「同じ」であることを互いに認め合わないと集団たり得ない、ただの烏合の衆になる。)

 定年後などの「田舎暮らし」が流行っているようだ。これに成功する人は、「感覚世界」の扱いがうまいように思われる。というか、感覚世界と抽象世界をうまいこと調和させているというか。(人間が文明を築き上げたのもこれによる。)だから、友人を多く作って農業を教えて貰ったり、或いはうまい食材を貰ったりして、気持ちの良い環境で暮らしを楽しんでいるのだろう。これは、感覚世界を満足させるために抽象世界を活用していることを意味する。基本的には感覚世界重視であるが、逆になると、個の存在が危うくなる。つまりは数十年前の日本がそうだった、ということである。

 う~む。当たり前って言えば当たり前なんだけれど、この考え方、実に使えるよねぇ。
 もし良かったら、「感覚世界と抽象世界の対立から近頃の教育の矛盾と人間の限界」9月2日記事を読んで下さい。違いについて詳しく書いてあります。
 今号の「考える人・万物流転」のごくごく最初の方に、養老先生が似たようなこと書いておられて嬉しかったです。と言って、まだ、ちゃんと全部読んでない。だって難しいから、腰を入れて踏ん張って格闘するつもりで読まないと(笑)理解できないんです。


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