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必要なのは質の高い「詰め込み教育」による底辺の底上げ

2006年09月24日 | 教育
 詰め込み教育と揶揄された従来の教育方法は、どの子どもにも精一杯の学習を強いていた、まさに「勉強」だった。しかし、知育、記憶力の偏重と言われ、やがて、人間教育の対極にあるものとして敵視されるようになってきた。「ゆとり教育」が受け入れられた背景にある考え方だろう。

 その更なる背景には、競争による詰め込み教育を受けて成長した人間の不満があると考える。
 競争とはそもそも相対主義的なもので、人より抜きんでるためのものである。視点を変えると、時間という制限以外にゴールのない争いになるということだ。所定の時間制限、期限内に自分が優位に立つためには、時には陰に日向に他人を蹴落とす、或いは、蹴落とされるという状況が起こりうるし、事実はどうであれ、また加害被害のどちらであれ、これらは極めて不快な感情で、人生の若い時期にこのような不快感を抱かなければならなかった人もいただろう。それに、とにかく、ゴールが他人との相対的な力関係に依存する状況は不安感を煽り、不快な感情をかなり長期にわたって持ち続けなければならないことを強いる。

 しかし、たぶん、そのような教育で日本は今の日本の基盤を作り上げ、経済成長を遂げた。
 しかし、他国からは、エコノミックアニマル、働き蜂と揶揄され、極東の小国ゆえに多分嫉妬もされただろう。それが前の不満と重ね合わされ、詰め込み教育の否定に繋がってきたと考えられるだろう。

 では、詰め込み教育とは一体どんなものだったのか、もう少し具体的に考える。
 例えば、小学生には必ず九九を覚えさせる。今でもそうだろうが徹底的だったというのが大分違うのではないか。給食が終わると担任の先生は覚えの悪い生徒をそばに呼んで、すらすら暗唱できるまで何度もやらせる。考えながらできる状態では合格できなかった。計算問題の機械的なドリル学習や漢字の練習も何十回とさせられた。やってこなければ、当時のことだから「ゴツン」というお仕置きが待っていたこともあっただろう。とにかく、何が何でも同じことを繰り返しさせられた。先生は絶対だった。
 学力向上以外他の場面でも、「教師の強力な指導」(その具体的な是非はまた別の話になる。)が発揮されることがあり、子どもは時に、否応なく従った。
 教師の指導方法には適否があったはずである。「勘違い」や派生的な歪みもあっただろう。しかし、根本には、「先生が生徒に働きかけることに対する肯定感」があったはずだ。悪しき側面から見ればその「肯定」は「誤った思いこみ」で、良い側面では「教育力に対する信頼」だったはずだ。肯定的な側面をもう少し言葉を換えて言えば、「先生が生徒の能力の向上を諦めなかったという姿勢」つまりは「使命感」があったということである。だから、先生は、「この子にはまだ無理だ」と思わず、強制的に全員に九九(九九でなくても、平仮名でも片仮名でもいい)を覚えさせた。(そしてその時間もあった。)
 日本中の学校の教育方針が、こうだった。その結果、日本人の計算能力や理数的な能力が高まり、優れた工業製品を大量生産できるようになった。識字能力や読解力が高まり(昭和40年代には、大人でも音読しながら新聞を読む人がいたが、ここ2,30年そのような人を見かけない。)、書類による伝達など、基盤が整備され、いちいち口頭で指示しなければならないことが減って来たはずだ。(「マニュアル」は文字が読めなければ存在し得ない。当たり前すぎて気が付かないことだと思うが。)

 子どもは、先生の指導に納得できた場合には「先生のお陰である」と感謝した。子供の頃には納得できなかったが、大人になってわかった人もいるだろう。先生の指導はさほど間違っていなかったのに、結局、子どもには不快感しか残さなかったこともあるだろう。もちろん、先生が誤った指導をして子どもに不快感を残したこともあっただろう。それで、多くの場合、不快感の方が快感より強く残る。(その方がおそらく生物として生存に有利だからだろう。)

 しかし、社会が豊かになり「快適志向」が当たり前の世の中になってくると、子ども時代の思い出の不快感がより鮮明に蘇ってくる。「快感が良くて不快が悪い」という価値観による判断である。かつての子どもは大人になり、自分の子どもには、教師による不快感を味わわせたくない、と言う思いを当然の思いとして抱く。「我が子の学校生活は、なるべく楽しい思い出に残るものが良い。」「授業は楽しく、わかりやすく行って欲しい」という願望で、非常に人間らしい思いである。

 その思いが「ゆとり教育」や「個性重視」是認に繋がった。それで、本人の意志を尊重する、やる気になるまで待つ、無理強いをしない、など、具体的な指導の不文律が生まれた。この方針には「教える側、教わる側互いの不快感を減ずる」という社会の流れに沿った「利点」があり、たちまち広がった。

 ところが「ゆとり教育」は、もともと教員の週休2日制導入を企図していたため、肝心な子どもの時間的なゆとりを奪うものだった。よって、授業時間を確保できないなどの不備を伴っていた。

 しかし、子どもの学習内容、時間が共に減少し、悪影響が目に見えてくると、今度は「ゆとり教育の否定」になる学力増強策が出てきた。いったん表に出てきて非常に耳に心地よい「個性重視」は、その快感ゆえに疑問を持たれずそのまま受け継がれ、実は「親の関心・財力・能力」による格差の固定化などを生む温床になってきた。理由を簡単に述べると、知的能力や関心の低い子どもは、放っておかれたらいつまで経っても勉強にやる気を見せない、ということである。それで、そのまま大人になれば、こういった態度が世代を超えて継承されると言うことである。しかし、さほど子どもに関心がない、財力、知的能力ともに下位に位置する親はこの事実に気が付かないから、「自己責任」の名の下、下位に甘んじざるを得ない。これは、このままいくと、能力のある者はどんどん能力を伸ばして経済力を得る、能力のない者は能力のないまま「自分らしく」それ相応に生きる社会を築き上げることになる。能力が低ければ、全ての生きる価値観が「自分らしく」に集約される。しかし、現状では、「自分らしい」がどのようなものであるかの意味は、公に一切問われることがないまま巷間に流布している。それでまた、疑問に思わない人ほど、知識も学力も伴わない状態で、即ち現代社会で生きる術を持たない状態で「自分らしく」という言葉に翻弄されようとしている現実がある。

 「個性」という言葉は恐い。数学が好きな子、運動の得意な子、全ての子どもの能力は等しくないから、もっともに思われる。しかし、個性を教育に活かすとは、最終的に子どもが大人になって自立しようとしたとき、「その個性的能力で食っていけるかどうか」という相対的な競争関係で捉えられるべきものなのだ。趣味として活かすというレベルなら少し別であるが、学校教育で「個性」を謳えば、このような意味での社会的位置付けが必要とされるべきであるのに、その前提がないまま無責任に語られているのが現状であろう。今の「個性」は、刹那的な個性尊重でしかない。

 社会が豊かであることの基本的条件には、自立して生きるメンバーが多いこと、自分のことはなるべく自分でするが、もしそれが困難なメンバーや困っているメンバーがいれば、喜んで手を貸すことができる余裕のある他の成員がいることだろう。その上での物質的精神的豊かさが大事である。
 それで、これを可能にするのは、「底辺を上げる」教育政策に他ならない。
 で、実は、日本の詰め込み教育は、それを果たしてきた要素が大きいのである。
 しかし、何にせよ、「他人との競争」というゴールの見えない方法を取ったために、不快感だけを残してしまった。これが詰め込み教育を否定的に見る最大の要因になってしまったのだ。

 で、今、多くの関心を呼んでいるフィンランドが取っているのはかつての日本のような「底辺を上げる」教育政策ではないのか。ただし、日本と大きく異なるのが、教員の質を上げ「子どもに良い思い出を作らせながら能力を高める」という、昔の日本が取れなかった「心温まる詰め込み教育」ではないのか。質の高い教員による、優しさも辛さも味わう教育ではないかと想像する。ただ、「先生」が人間的にもおそらく優れている分、子どもにも何かしら納得できる満足を与えてくれるのだろう。高い目標であっても目指すゴールが目に見えて、苦痛はあっても上手に叱咤激励して貰えれば、子どもは苦痛に耐え、大人へと成長することができるのだ。

 少し前?に文科大臣が「競争の導入」と言ったが、観点を取り違っている。大事なのは、競争の導入ではなく、「いかにして未来の国民たる子どもに詰め込むか」という底辺を上げる方策だったのだ。

 ただ子ども時代に楽しい思い出を作らせるだけの教育なら、本人の好きに任せて「その気になるのを待つ」のが良い。しかし、これは決して教育にならない。その気にならない子どもの方がたぶん、きっと数の上では勝っているだろう。
 たとえ本人が嫌がっていることであっても、時に叱ることがあっても、重要性を語るなり何なりして知識を詰め込み、ねばり強く指導する必要があるのだ。
 子どもは「個性」豊かである。勉強が好きな子が言わば「変わっている」のである。しかし、過去においても勉強が好きな子がいたから、人間はここまで文明を築き上げることができたはずだし、現代のこの文明に浸りきっていて「勉強をしたくない」は権利の行使と義務の遂行から言って許されることではない。

 今の教育論議が不毛なのは、きちんと視点を定めていないからだと思う。「詰め込み」は悪くないのである。知識も考える能力も、「詰め込み教育」からしか獲得できない。しかし、日本の詰め込み教育が否定されるのは、「嫌な思い出」を伴うものだったからである。時間制限による効率主義は、共通一次に始まる入試の是正後も今も実態は変わらない。あれから20年近く経った現在ではかえってひどくなったと見るのが順当であろう。
 しかし、「詰め込み=不快な思い出、悪」という図式が今の大人のアタマの中にすり込まれてしまっているため、「昔日本で行っていた詰め込みそのものは悪くなかった、ただ、競争方式を取り、不快感を多く伴わせた方法が悪かったのだ」という考え方が理解されることはないだろうと思う。今では更に、豊かな社会ゆえの妄想、「もっと楽しく、快適に。楽しいことが素晴らしい。快感を持つことが良いことだ」という幻想がある。しかし、子どもの教育だけは、こういった価値観から多少はずれる側面、苦しくてどうしようもないときがあることは、なかなか理解が難しいだろう。(それを身近で手助けてしてくれる人がいるのが子どもにとっての理想である。これを世代を超えて繋いで行っていくことができれば、良いのである。)

 「じゃあどうやって?」と言っても、人口僅か500万人しかいない国家と同じ方策は取れまい。民族性も違うだろうし、20倍以上の人口を持つ日本では、国民の「総意」を得にくいだろう。日本は幼・小・中・高教員だけで90万人ほどいるようだ。(総務省統計局2004年のデータ・しかし、大学教員が抜けているのはなんでだろ?非常勤や兼務が多いから???)でもね、やっぱり、それ関係のお役所がそういう政策を考えないことには困難であろうに。が、民主主義というヤツは、その意味で、なんだかんだと「国民の総意」たる選挙の影響を無視できないから、ここまで国民が安易な思考力しか持たなくなっている現実を見ると、本当に前途多難だと言うことになる。

 「『子どもの教育には叱ることも大切です。』キャンペーン」から始めないといけないだろうな。でも、児童虐待との関係もあるし、だいたい、それ以前の動物的な「食う」「寝る」子育てすらできていない親が多い現実を見ると、「教育」なんてずいぶんと遠い世界の話だと言うことになってしまう。そこまで今の日本は、次の世代を育てることができないほど、もう既に、もの凄く病んでいる。


2 コメント

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Unknown (madographos)
2006-09-24 17:23:01
私の言いたいことを,ずばり言い当ててくださいました。

詰め込みであっても,辛い思いをさせても,身につけさせるべきものは身につけさせる,そのような教師の使命感と,それを当然のこととして受け入れる社会の枠組みが壊れてしまいました。



「今の日本は、次の世代を育てることができないほど、もう既に、もの凄く病んでいる。」

まさに同感です。

書いてて憂鬱になりました (ほり(管理人))
2006-09-24 20:55:26
madographosさん、コメントをありがとうございます。



「学校教育を考える」の「分かれ道」に触発されて書きましたが、今の教育政策では、madographosさんも常々おっしゃってるように、これまでの検討を行わずに次から次へと新しい政策を打ち立てる。どうして、このような学問的ではない態度を取ることができるのでしょうね。それとも、ごく少数の上位層が、「わかって」いてのことなのでしょうか。何故みんな疑問を持たないのでしょうか。



なーんか、もうホントに、教員やっているのが嫌になります。学校では話が合わないし。。たぶん、多くの人は現実を見ろ、つまり、「間違った多数意見に与せよ」と言うのでしょう。私は嫌だ。(でもこれもツライのだ。)

madographosさんが教員なら、同じ学校に行きたいな。(って、高校じゃなかったら、同じ都道府県じゃなかったら無理だけど。笑)

今後ともよろしくお願いいたします。

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