考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

覚えるのが苦手

2008年12月13日 | 教育
 昔々、大昔、生徒の記憶力の良さに感服したことがある。彼らは試験に出そうなことをとにかく覚えて乗り切ろうとしていた。「覚えろ」と言うと、「よし」と気合いを入れて覚えるか、「覚えりゃいいんでしょ」と覚えることを当たり前のように覚えていた。それで、実に勤勉に覚え込んでまあまあ良い成績をあげていた。自分の高校時代と比べてなんという違いだと内心で感嘆していた。私は記憶力が悪いので、覚える量が出来るだけ少なくて済むように、あるいは、覚えやすくするために論理付けをしたりなど試行錯誤をして苦労していたが、その頃に出会った生徒の記憶力は、もう、抜群としか言いようがない力を持つ者も多くいた。弱点は、「丸覚え」に近いので、定期テストは出来ても模試などになると力が発揮できてない生徒が幾ばくかいたことだった。彼らはゆとり教育以前の世代である。
 近年出会う生徒は、もちろん学校は異なるが、模試の平均偏差値はまあそんなに違わない。なのに、どう見ても、記憶を苦手とする生徒が多いように思われてならない。しかも、覚えることに価値をおいてないように見えるのが大きな違いなのである。「覚えろ」というと決して良い顔をしない。それどころか「こんなにたくさん覚えるの~~」と怖じ気づく。覚えることにもの凄い抵抗があるようにみえるし、覚え方も知らないようなのだ。
 小中学校での学習量が減ってきてからこの傾向が強いような気がしてならない。小学生の頃というのは、特に小学校3,4年の頃というのは記憶力がもの凄い時期ではないだろうか。何でもかんでも覚えてしまう。それで、覚えることに楽しみを見出したりする時期でなかろうか。しかるに、近年の子供たちは、覚えることが楽しい時期に覚えることをしてないのではないかと疑われてならない。私は彼らは「記憶する能力」をこれまで上手く育ててこなかったのではないかと思う。だから、高校に入って、特に英語なんぞで莫大な量の記憶を要求され、ギャップの大きさに戸惑い、ついてこれる状態でなくなるのではないのかと思う。
 自分の話で恐縮だが、とにかく私は覚えるのが苦手だったから、中学生のとき、社会科で地理でも歴史でもたくさん覚えるのに随分と苦労をした。白地図(←もちろん、自分で描いたよ)に書き込みをしたり、自分で年表を作ったり、表に纏めたりなど繰り返し書いたり言ったりの努力をして覚えた。その時思ったのは、「中学生の勉強でこんなに苦労をしてるのだから、高校に入ったら、もう勉強についていけなくなるのではないか」ということだ。しかし、高校に入ったら入ったで、もちろん勉強の苦労はずっと続いたが、それでもなんとかなった。振り返るに、中学時代に苦労して覚えて、言わば、覚える訓練を積んだ成果で記憶力でも学習能力が高まり、高校のより難しい事項もそれなりに習得できたのではないかということだ。もし、中学で覚える訓練をしなかったら、私の高校時代の成績は随分と違うものになっていたのではないか。単に、中学時代の言わば「貯金」の結果で高校の勉強とのギャップが少なくなったというだけでないように思われてならないのである。こういった観点で言うと、今の高校生は気の毒なことに、小さいときに覚える訓練を積んでこなかったから覚えることの大切さも知らず、記憶力も鍛え上げられないままきてしまったのではなかろうか。
 人間の子供の学習能力を十分に発達させるためには、当たり前だが、時機を得た学習が重要であろう。暗記力旺盛な時期に「考える力」を伸ばそうとしても無理である。考える力は、十代に入ってからで、それも、知識が骨肉化し、使える語彙がようやく思考内容と合致し始める後半になってからで十分であろう。(10代前半では、使用語彙より心にある思いの方が複雑だろうから、考えていることを言語化させるのは気の毒である。思考が使用語彙に制限され、言葉にならない思いを捨て、思考を単純化させてしまうはずだ。)
 知識はネットに預けておいて考える力だけ伸ばそうとしても無理な話である。知識を仕入れる段階で、知識のネットワークを自分の脳味噌に形成しなければ、周りにどんな有用な知識があろうと、有効に利用できない。つまり、考えることが出来るようにはならないだろう。「自分で考える」とは、ネットワーク化するということで、ネットワーク化する自分自身は、決してネット上に存在しない。知識はネットにあればいいと確か茂木さんはどこかで言っていたような気がするか、それは、彼が若い頃にもの凄く勉強をして(これも、なにかで読んだ。)、自分の脳味噌の中にネットワーク化できる能力を身に付けたからに過ぎない。そういう人と、そうでない人間が、ネットを記憶力代わりに利用して、同じように思考することは到底できないだろう。
 ネットを利用するにも、それ以前に外部記憶の知識を利用できるネットワークを自分の中に構築しておく、これが子供時代の教育目的の一つであろうし、そのネットワーク作りに重要なのは、以後の人生において、より大きなネットワークに繋がる「芽」としての知識の記憶である。材料は、もちろん流行によったものではなく、不易としてより豊かな世界を享受できる人間の叡智に関わるものであった方が、どれほど良いかわからないだろう。

6 コメント

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ありがとうございました (madographos)
2008-12-14 11:24:10
TBありがとうございました。こちらからもTBさせていただきます。この記事は,実は,擬プルタルコスの『子どもの教育について』の受け売りです。そこには,記憶力を訓練することで,生まれつきの資質が豊かな者は,他者よりも優れた者となり,生まれつきの資質が不足している者は,以前の自分よりも優れた者となると書いてあります。まさに至言だと思っています。
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詰め込みか思考か (taketyann)
2008-12-14 12:00:53
以前にも同じようなコメントをしたかもしれませんが、昨今の「考えさせる」教育にはどうも腑に落ちないところがあります。

ペリーが来航して開国を迫ったときに、日本は開国すべきだったか攘夷すべきだったかを考える、といった指導案を見たことがありますが、「そんなこと考えさせてどうなる?」というのが第一印象でした。だって答えは出てるんですから。

百歩譲って、子どもが自分の頭で考えることが大事なのだとしましょう。それにしても普通の小学生が持っている歴史的知識など微々たる物で、それだけを根拠に幕府や朝廷を批判することに意味があるのでしょうか。

加えて、こういう考えさせる授業をすると、それだけ時間がかかるので結果的に記憶する知識の量が減ることになります。最近の教科書が薄っぺらいのもこういった傾向が一つの原因でしょう。


一方で最近の小学生は興味の無いことには取り組もうとしない傾向があるので、詰め込み一辺倒では学習意欲が持続しないという事情もあり、考える授業を完全否定し切れないというのも事実です。

もし、このことが中学・高校で勉強についていけない生徒を生み出す遠因になっているのだとしたら、何とも皮肉なことですね。
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こちらこそ (ほり(管理人))
2008-12-14 21:40:16
madographosさん、コメントとTBをありがとうございます。
「学校教育を考える」では、いつも刺激をうけさせていただいています。

子供を大人にする教育の基本に今も昔もないように思いますが、昨今は目先に囚われる方策が多く、まあ、教育が、「子供のための教育」より、「(一部の)大人のために存在する子供の教育」になっているということでしょうか。
古典を重視すると、教科書や問題集の編纂の工夫や教授法の工夫も何もありませんから。。

私は「受け売り」こそ教員の真骨頂だと思っています。
今度、教科書が詳しくなるようですね。けっこうなことです。

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実は根が深い (ほり(管理人))
2008-12-14 21:56:49
taketyannさん、コメントをありがとうございます。

記憶力等の話は、以前も書いたように思いながら私も書きました。(笑)

ペリーの来航について論じるなんて、私、できませんよ。(笑)
私は生半可な知識で考えさせることほど怖いことはないように思います。
だから、ホントは、自由英作文だって、入試の小論文だって、英語100語やそこらで、また、1000字そこらで何が書けるんだ、と疑問も強く持ってるんです。ブログの記事だって、ちゃんとわかってもらえるように書こうと思うと、どうしても2000字くらいにはなってしまう。それでも、まだホントは足りてないでしょう。まあ、私のブログの場合は、ほとんどが「お馴染みさん」だろうから、わかってもらえるかな、と言う程度で寸。

>一方で最近の小学生は興味の無いことには取り組もうとしない傾向があるので、

私、これに問題を感じるんです。
最大の問題は、教える側にあるのではなく、学ぶ側に自分は学ぶ存在であるという心の準備が全くできてないまま学校にあがる。誰も、親も社会もだれも教えてないのではないでしょうか。(学校の先生が言っても、まあ、あまり説得力ないでしょう。)
勉強、学ぶことなんて、決して「楽しいから学ぶ」ではないと思うんです。「学ばなければならないから学ぶ」「親や先生の言うことは聞かなければならないから聞く」などの、子供のあり方(?)の基本が全く蔑ろにされている。
身体を使って遊ばない、などの他の理由も絡むでしょうが、根本が違ってしまっている。大人の快楽主義に付き合わされ、その犠牲になっているようにも思います。

覚えることについては「わかってから覚える」なんて、無理。「覚えてからわかる」でいいんですよ。大抵のことは、誰でもそうやって習得してきたと思うのに、なぜ自分が辿ってきた過程を否定し、アタマの中の理想--「わかってから覚える」を子供に押しつけるのでしょう。

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Unknown (taketyann)
2008-12-14 22:29:53
>覚えることについては「わかってから覚える」なんて、無理。「覚えてからわかる」でいいんですよ。

正に同感です。我々が使っているこのパソコンだって、CPUだのTCP/IPだの、基本原理を習得してから使い出しましたか?
ある程度使いこなせるようになってはじめて、内部の仕組みだとかに目が行くのであって、これは車でも携帯電話でも同様です。(あの分厚いマニュアルを完璧に覚えてから使用を始める人など皆無でしょう。)


コメントを読んでいて、星新一のあるショートショートを思い出しました。(題名は忘れましたが)

とても進んだ文明を持つ宇宙人が、ある日UFOで地球にやってくる。光か何かであっという間に物質を作り出すなど、そのオーバーテクノロジーに地球人はみな感心するのですが、ある日事故でUFOは爆発してしまい、宇宙人はからくも脱出します。

地球人は彼から進んだ技術を教えてもらおうとするのですが、肝心の宇宙人は技術について何も知らず、UFOの制御も全て機械まかせだったことが判明します。

地球人は失望するのですが、ある人物は「そういえば我々だって大差ない。君に1本のマッチが作れるか?僕も時計の修理ひとつできない。テレビの原理を知っている者が何人いる。文明とはそういうものなのだろうな。」というストーリーです。

わかってから覚えていては、いくら時間があっても足りそうにありませんね。
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知ってる知ってる~♪ (ほり(管理人))
2008-12-15 20:56:37
taketyannさん、コメントをありがとうございます。

子供が「わからないから面白くない」は、一面の真実であるとは思うけど、「わかると面白い」と周りが言い過ぎてるから、それを信じ込んじゃって、で、「わかんないから面白くない」、で、実は「勉強したくない」の言い訳に聞こえるときがあります。勉強なんて、もともとわかんないもので、わかったら僥倖だ、周りの大人が教えると良いかもしれませんね。もちろん、これは極論ですが。

勉強なんて、すればするほどわからなくなるものだから、「わかると面白い」は、そこまで勉強をしたことがない人が言い出したのかしら。(というのは意地悪かもしれませんが。)

おっしゃるショートショート、私も知ってます。星新一は読破してると思います。

関係ないけど、「おーい、出てこい」は、環境問題にぴったり。
大きな穴があって、そこにどんどんものを捨てていったら、ある日突然、空からゴミがどんどん降ってくるようになったという話だったような気がします。

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