考えるのが好きだった

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内容理解と文章理解

2011年07月24日 | 教育
 リーディングで、英語Ⅰ、Ⅱなどの授業で主に行うのは「読解」である。読解は
私は、内容理解と文章理解の2つに分けられることができて、かつ両者は似て非なるものと思っている。

 「内容理解」は、要は「内容」をつかむことが目的だから、事前に知識を得て理解したり、人の解説を聞いて納得をするなど、理解の獲得はいかような方法を取ろうと構わない。新しい知識や知見を得たり、物語の情緒を味わうなり、筆者の主張内容がわかれば良い。「情報の獲得」という観点で言うと、「情報の中身」を新規に取得すると考えて良いから、結果的には、手元に「読解して得られたモノ」が残ることが重要になる。
 一方、「文章理解」は、「情報の中身」、最終的な「モノ」が大事なのではない。「情報の獲得の仕方」を問う営みである。眼前の文章を所定の手続きを踏んで読むことによって、書かれている内容を理解したり、味わったりするのである。新規な知識を得ることもあるだろうし、心温まる経験をすることもあるだろう。この意味で、前に述べた内容読解と変わらない。

 しかし、両者で決定的に異なるのは、文章読解のプロセスである。
 たとえば、次のような文章があったとする。

I was late for school today. The train had been delayed.

 「文章」とは呼べないほどのあまりに簡単なものだが、「内容理解」で言うと、「私は今日学校に遅刻した。電車が遅れたのだった。」というように、私が遅刻したという事実と、電車が遅れていたという事実を知れば良いことになる。もう少し、踏み込んで、「電車が遅れたから遅刻した」とわかれば良い。しかし、「文章読解」の観点で言うと、「第2文は第1文の理由の説明である」ととらえることが寛容になる。
 「同じじゃないか」と思われるかもしれないが、全く異なる。前者は、この2文の内容だけ理解すればそれで良い。他方、後者は2文の関係を読み取らせるという観点で全く異なる。文章の「流れ」、あるいは、論の展開を踏まえた読み方である。「文」という概念で書かれた内容をとらえるだけでなく「文と文の構成」という更に上位の概念で、文をとらえるから全く違うのだ。この違いは、応用が利くか、利かないかに帰結する。

 私は、学校では、後者のような応用の利く読み方を学ぶべきだと思っている。具体的な題材を通してしか不可能であるが、国語や英語などの文章読解において重要なのは、そのときに読んだ話の内容だけでは決してないのだ。歴史や理科の教科書の読解は知識を得る、「内容理解」の読解である。しかし、国語や英語などの読解の授業は異なろう。もちろん、得たモノが、学校時代に読んだ物語が心に長く残っていたりすることはあるだろうし、新たに獲得した知識だったりもするだろう。しかし、決してそれだけではない。具体的な知識を獲得することを通して、正しく考える方法、論理展開の妙なども学ぶことは、学校の読解の授業を通してしか学べないことであるように思う。社会に出て求められるのは、具体的な知識や知見であろう。繰り返すが、もちろん、知識は重要であるが、知識は学校で学ぶモノがすべてであるはずがない。知識という観点で学校で学べるのは、ごくごく基本的な知識でしかない。これを補完するため、応用が利く、知識の獲得方法、文章読解という方法を学ぶ。

 英語は、単語やなんやかんや、知識が重視される。だから、コミュニケーション英語なのだろう。現代標準的に用いられる表現で、読ませる文章は、ここ数年に書かれたモノばかりと言って良い。要は、「手元に残るもの」の重視である。しかし、そんなのは、なーんか、私には、ほとんと枝葉末節的であるようにも思うのだ。
 単語や表現には、はやり廃りがある。今、好ましく使われる表現が、そのまま30年後も使われるとは限らない。単語や書かれた知識が重要でない、というつもりは決してない。しかし、それだけに留まっていたら、正しい外国語教育は出来ないだろう。特に英語のような論理的な言語を習得するには、学校時代に、まずは、そうした言語特有の論理などの基盤を獲得する方が、のちのち生きてくるのではないか。

 しかし、教える題材そのものは、現代の非常に具体的な事象である。だから、何を教えるべきかを間違えやすくなるように思ったりする。

 端折るが、国語や英語などの「言語」の授業は、どうしても、オモテに出てくる言葉そのものの学習になるが、もちろん、それで間違いだというわけではないが、違う側面をもっと重視させても良いのではないかと思う。

 追記

 教科書会社が作っているいわゆる、指導書というのは、やたら、値段が高い。その割に、知りたいことが書いてない。
 で、上記のような内容も、「書いてない」ものの一つである。
 こうした視点で書いているのは、受験参考書のいくらか。まるで、受験のテクニックであるかのように書いてあるが、実際には、文章読解、文章構成の基本中の基本である。それなのに、受験参考書に書かれているばかりに、枝葉末節のテクニックだと解釈されかねない状態になっているように思う。

 世の中、おかしい。

 で、テクニックとしか解されない理由は、わからないではない。
 だって、「本質」は、「わずか」なのである。
 持論であるが、本質としての論の展開は、ほんの1つか2つの思考法である。大きく言えば、1つだけ。あとは、応用。
 そもそも人間の思考なんて、複雑なわけはない。「デジタル」が、0と1だけですべてを表すようなものだろうと思う。だったら、まずは、デジタルの2進法を教える方が私は良いと思う。

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