考えるのが好きだった

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正法眼蔵の諸法・仏法・縁起・不生不滅

2012年02月18日 | 物の見方
 正法眼蔵の現成公案(正法眼蔵のエッセンスらしい)はこう始まるようだ。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり、万法ともわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」
 「諸法」とは、「あやゆるもの」のことらしい。(これは、本の解説などにあるようだ。)仏法はわからないから、(安直にウェブで)辞書を引いた。「仏の教え」とあるが、なんのことかわからない。「法」も調べると、「掟、秩序維持の規範、一定の手順」などの意味がある。もちろん、「仏教で、仏の教え」「仏教で、存在、現象」「死者を弔うこと」などがある。「諸法」の「法」も「存在・現象」であろう。「法」のこうしたさまざまな意味から類推するに、「法」の本質には「何かが他のものと何らか秩序だって繋がっている状態や状況」があるのではないだろうか。(その観点で「存在・現象」を捉えると非常に興味深い。「仏の教え」という意味は、仏の教えそのものがこうした「法」の本質に則ったものだということだろう。)
 般若心経には「諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得」などあるが、まあ、もともとは同じお釈迦様に由来するから同じだろう。で、普通はこうした文言が何を意味するか、わからない(と私は思う)。で、もう一つ、「縁起」もよくわからない。

 でも、突然ですが、思ったのです。
 仏教で言われる「法」や「縁起」、そこから生起する「不生不滅」などの考え方は、もともとは、生物のクエン酸回路のように、モノが循環する「システム」あるいは「働き」「機能」としてあるものではないか、と。ちょうど、「唇」は存在しても、「口」は機能を表す言葉だから、「口」そのものは存在しない、みたいな。(@養老先生)「縁起」とは、モノが巡り巡って循環する、まさに、その「循環する働き」を指す言葉ではないでしょうか、と。(この考え方は、私が類推する「法」の概念と重なります。)

 そのように考えると、我々でも誰でも、「個物」の存在は、それぞれ「別個のモノ」として存在するものの、我々を形作っている原子や分子、エネルギーの循環など、さらには、思考の伝播のような授受、その他もろもろを「働き」あるいは、他との「循環」が関わるシステムと捉えれば、たとえ我々がそれぞれ個別に生死する存在でありながら「仏法」や「縁起」が常に同様に、自分自身に関わってきます。我々は、個別に存在しながらも、自己以外のものとの繋がりなしに存在できません。この現実を仏教では「仏法」や「縁起」と表現したのではないでしょうか。この意味で、我々は決して仏法や縁起と無縁でいられないのです。巡り巡る「循環」という働きそのものは「我々」を個別に存在させ、生滅させながらにして、「循環」は決して止まることがないと言う意味で同時に「不生不滅」であることになります。
 クエン酸回路は、いつ観察しても固定して物質が存在しているように見えます。この状況が「諸法」として存在する「あなた」や「私」です。しかし、クエン酸回路は、一瞬たりとて、同じ物質がそこに留まっていることがありません。つねに外部とも内部でも、「やりとり」をして恒常的に循環が行われています。その機能や循環というシステムこそが「仏法」や「縁起」に当たるものではないかということです。「循環」は常に、どこででも生じているということです。この意味において、さまざまな場所、形態で生じる現象のすべてが「法」ではないのだろうか。

 ならば、話が早い。

 「循環する機能やシステム」と言う考え方をすると、そこには生もなく死もなく、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。・・」ということになるのは、当然です。

 「仏教」の教えとは、広大な「システム機能論」だったのです。

 数週間前「ためしてガッテン」で、不安を克服する番組をやった。そこに、謎の男性「平井さん」と言う方が出てきて、バンジージャンプに挑戦するが、おなじ挑戦をした番組スタッフと異なり、平井さんは、不安をやり過ごしていた。
 「平井さん」の正体は禅僧だった。平井さんの脳の検査をすると、背内側前頭前野という部位の血流が多いことがわかった。この部位は、不安の感情を生み出す扁桃体の暴走を防ぐらしい。平井さんの場合、これがうまく機能していたため、上手に不安を乗り越えた。
 「座禅によって極度の不安をのりこえることができる」という一種の「生活の知恵」は経験で到達したのでしょう。
 「仏教」が目指すものは、ある意味一部に、(ひょっとして、)通常の意識だけでは到達できない能力の開発も含んだのではないでしょうか。(少なくとも、「修行」はそうだろう。)
 「禅」は、たぶん、「今、ここ」を大事にします。これは、自転車をこぐことを大事にするのと同じような気がします。だって、自転車はこぎ続けないと、倒れてしまいますから。こうした循環・機能を重視することが、まさに、「生きる」ということではないでしょうか。個体としては生死があっても、循環するという機能の観点で、不生不滅になるのです。

 この考えの根底にあるのは、「現象(個物)」と「現象を形作るもの(循環という働きのシステム)」を同次元のにある対比的なものとして捉えず、「重なり合うもの」として捉えたことです。(次元が変わるということです。)「諸法」と「仏法」を、「犬」と「猫」のようにとらえると、決して違いを理解できないでしょう。そうではなく、「犬」と「動物」のように捉えるわけです。犬と動物は、思考の次元が異なるので、異なるものでありながら、「重なり」があるのです。

 「仏法」とは、我々生きとし生けるものは生死ある個別的な存在としてだけでなく、循環機能的な存在として在ることを知らしめる教えではないでしょうか。それで、これを体験的に知ることが「悟る」ことではないかというのが私の仮説です。

 (と、理屈ではわかったとしても、修行の「し」の字も知らない者は、実感としてわかることなんて出来るものでない。)

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おっじゃましまぁ~す♪ (50cent)
2012-02-19 22:23:43
えっと、この記事を拝読してぇ~ 記事は・・・ぼくのオツムにはムズいので、まったく記事とは無関係にちょっち検索して・・・ヒット先でちょっち気になる記述を見つけちゃったので・・・、経緯のご説明のために、この記事のご紹介をしちゃいましたぁ~

・・・ごめんんさい・・・もし、不都合がございましたら、ご一報下さりませ、即削除しちゃいまっす♪

しっつれいしましたぁ~
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どうも~♪ (ほり(管理人))
2012-02-19 23:51:57
50centさん、コメントをありがとうございます。

おお、そちらにお出ででしたか~♪
どうぞ、どうぞ。
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おっじゃましまぁ~す♪ (50cent)
2012-02-24 21:14:07

 えっと、こちらの記事を繰り返し繰り返し・・・オネムになるまで何度も何度も拝読してぇ~ ・・・眠っちゃったんでっす。 したら、夜中にオツムの中の虫 ・・・ん? ナイナイゴシゴシ オツムの中のこびとさん達が・・・目覚めたら、こんな落書きが

 昨日 生まれ
 今日を生き
 明日 死ぬ

 あったんでっす♪

 これで・・・なんとか、及第点をとれるでしょうか???

 わぁ~ ドキドキワクワク

 (お目障りでしたら、削除しちゃって下さりませ♪)

 しっつれいしましたぁ~

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どうも~♪ (ほり(管理人))
2012-02-25 00:12:16
50centさん、コメントをありがとうございます。

>昨日 生まれ
今日を生き
明日 死ぬ

これは「諸法」としての在り方だと思います。
「仏法」は、「生まれ、生き、死ぬ」というプロセスそのものを指す流れだと思いました。
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