考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

私の考える「絶対性」

2007年10月24日 | 物の見方
今日の内田先生のブログ、

>真の知性は「存在しないもの」、私たちの意識から絶えず逃れ去ろうとするもの、知性が把持することのできないものを選択的に追う。

これが「絶対性」なんだよ。私のコトバで言うと。
「絶対性」は、問うても問うても、逃げ水のように捕まえられないモノだと思う。それで、「問うてはならない」領域にまで行くのは、人間の知性の限界が、今のところそこだということなのだ。「数学の原点」とか「にわかに無がある」がそれだろう。(荘子も、だから、「にわかに」としか表現できなかったんじゃないのかな。←これがいい加減な言。ま、私の言うことは大方いい加減だけど。)
で、だから、人によって「絶対」の定義は異なるとも言える。


33 コメント

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原点というより無限大 (heisan)
2007-10-25 00:55:51
絶対性は,原点ではなくて,無限大では?
原点というのは自分の立っている足もとのことで,その自分の立っている場所からは見通しがたい位置にある何かを,ほり先生は絶対性と呼んでおられるように思います。

「見通しがたい何か」は,ただその限りでは,「ああ,ほんとやね。見通しがたいね。(チャンチャン♪)」で終わってしまいます。別にそれは個々人(わたし)において魅力的に機能しません。
「見通しがたい何か」がわたしに影響を与えている,ということを自覚できてはじめて,それは魅力的に機能します。

内田先生は,「存在しないもの」という言い方をされていますが,私はこれでは曖昧だと思っていて,そのわけは,「存在しないもの」の中には,自分に影響を与えるものと与えないものがあるのに,その区別がされていない,という点です。内田先生は,前者の意味に限定して使われているように思います。「自分に影響を与えなくて且つ存在しないもの」に対しては,そもそも人間は,注意を向けることができませんから。
(というものの,じゃあ「何を以て影響があったとするのか?」「注意を向ける向けないは,意識的なレベルと無意識のレベルがあるように思われるが,これをどう扱うか?」というような,さらに深い問題が内在しているのですが…。いまはとりあえず措きます)

内田先生がおっしゃりたいことは,たぶん,

 「存在しないもの」が確かに存在しないことを確認する行為には意味がある

というようなことではないかと思っています。
「存在するもの」が「確かに存在する」ということを確認することは簡単です。「ああ,ここに○○があるな」という風に,五感を使ってチェックすればいいわけですから。
しかし,「存在しないもの」が,「確かに存在しないのだ」ということを言うのは簡単ではありません。
人間は,このどちらの確認行為に対しても同等に目的性を覚える存在だと思いますが,多くの場合,「前者は簡単であり,後者は簡単でない」という経験的な事情があるために,人間というものは,後者の確認行為に,より「燃える」のでしょう。


<余談>
ちなみに述べさせていただきますが,私は内田先生の「残念ながら、90%の学者は後者である」という物言いには,特にこの「残念ながら」という部分には,なにかしら黙認しておけないものを感じました。
なんというか,「この90%の学者によってもたらされている社会的な恩恵」に対する感謝・敬意の念が全く感じられない,という点において。

フランス現代思想の分野では,「90%の学者」はあまり社会的な貢献をしていないとみなされているの「かも」しれませんが,仮にそうであったとしても,その一例に対する理解を学問全分野に押し広げるのには,ものすごく無理があります。
しかし,この内田先生の文章をさらっと読むと,すべての学問分野において「『90%の学者』は敬意を表するにそれほど値せず」との推論があたかも正当であるかのように読めてしまいます。
いかに方便とはいえ,「一日のべ一万人以上がアクセスし,書かれた文章の要約が日を待たずしてウィキペディア上に上梓される」ブログである以上,もう少し「気を遣って」頂いてもよかったのではないか,と感じてしまいます。

<話を戻します>
とはいえ,我々は何かを日々「確認」するために生き続けている,というパラダイムは,なかなかおもしろいなぁと思っています(これに関しては,以前から私も,私の知人に触発されて少し考えているところがありましたので)。
原点=絶対性かも (ほり(管理人))
2007-10-25 22:10:33
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>原点というのは自分の立っている足もとのことで,

この「原点」は、立っているその人の立ち位置、或いは、その人の世界観の元というか、中心であるだけで、決して私の言う原点ではありません。
だって、heisanさんの原点と、私の原点が違っては困ります。だって、原点は、「一つ」だもの。でないとそれは原点でありません。
私が言うのは、もっと最大の意味での抽象化された「原点」なんです。

>そのわけは,「存在しないもの」の中には,自分に影響を与えるものと与えないものがあるのに,その区別がされていない,という点です。内田先生は,前者の意味に限定して使われているように思います。

影響を与える、与えないは、私には逆に、些細なことだと思われます。それを越えたところの「存在しないもの」じゃないかな。その方が、私の場合は、納得できる。「私」に囚われるのが、そもそも「絶対性」から遠ざかることだと思うから。

>なんというか,「この90%の学者によってもたらされている社会的な恩恵」に対する感謝・敬意の念が全く感じられない,という点において。

「感謝・敬意」は、一種の「人間関係」です。で、内田先生がおっしゃっているのは、学問における「絶対性」に関することだから、尺度が別です。
「感謝」されるために研究する人がいたとしたら、「人間関係」の世界で、言わば、学問を「道具」にしているわけでしょう。メーカーやサービス業とそんなに変わらない気がします。(←もっと、ヒドイ?)例えば、数学者が感謝されるために研究していると思えない。(学者同士の競争はあるだろうけど。)

「感謝」は、恩恵を受ける我々がそれぞれで勝手に(?)感じればいいことだから、内田先生が真の学者ならば、決して述べるべき言葉ではないと思います。(だって、読者に「私に感謝しろ」といっているようなものだから。)まあ、今の時代、学者さんや学問に対する「真の敬意」は減っていると思います。学校の勉強が「道具」にしかなってないからよくわかります。

それから、heisanさんは、「学問は社会貢献のため」という先入観があるのではないかしら。「社会貢献」も「人間関係」です。
でも、学問って、そういう類じゃないと思います。

ひょいと今思ったのは、内田先生の言ってるのは、私が「勉強をするのは『わかる』ためでは決してない」というのに似てるかな、ということでした。
私は、「わからないことを求めて勉強をする」みたいな感じかな。自分では「氷山」の譬えをよく持ち出すけど、「わかれば分かるほど、それだけ「わからないこと」も出てくる」、それが真の勉強、学問だと思うから。

そうでないと、学問は進歩しないでしょう。数学なんて、特にそうでしょう。

90%の学者は、今売れてる「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著)にある、「死んだ鳥症候群(だったっけ?)」に似ているなと思いました。(この本、めっちゃ、面白かった♪)
内田先生は、そういうことを言いたかったんじゃないのかな。
絶対性の禁止こそが学問の原点 (heisan)
2007-10-26 00:35:36
> 原点

私の「原点」の定義は,数学的および言語的な感覚に基づくものです。
数学的な感覚に基づく原点とは,おなじみの,(0,0),というやつです。
この(0,0)という感覚は,日本語で言うと「ここ」に相当します。
「ここ」,「そこ」,「あそこ」,と行くにしたがって,原点から距離は遠のいていきます。
「原点」は,一体の生物学的主体が一つずつ持っているものであると私は考えています。

一方,ほり先生はこれとは違う定義を採用されているようですね.
「抽象化された原点」とおっしゃってられますが,どのように抽象化するのかが人によって違うのではありませんか?
仮に「そんなことはない」とすれば,いったいどんな方法によって,生まれも育ちも異なる複数体の生物学的主体の間で,かかる原点を「完全に」共通に認識することができるというのでしょうか。



> 「感謝・敬意」は、一種の「人間関係」

「人間関係」をダシに揚げ足を取られてしまっている感があるので(感謝や敬意という言葉は,私のここでの主張において本質的ではありません),言いたかったことをもう一度整理します。
私が言いたかったのは,内田先生の物言いからは,

「ワイルドでカラフルな仮説を立てる人」のほうが「重箱の隅をつつく人」より偉い

というメッセージが感じられるのですが,私は,これは「それなりに偏見のこもった」メッセージだと思っています。
事情を詳しく知らない人からすれば,これが「偏見入りまくりの」メッセージであるということに気づかない可能性が高いと思いました。
この点で問題があると思ったのです。

内田先生はおそらく,「昨今,非実証的研究よりも実証的研究ばかりがもてはやされている」現状に鑑みて,このようなメッセージを発信されたのだと推測しますが,やはり,「やりすぎ」の感は否めないと思いました。



> 90%の学者は、今売れてる「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著)にある、「死んだ鳥症候群(だったっけ?)」に似ているなと思いました。(この本、めっちゃ、面白かった♪)

そもそも,「重箱の隅をつつく人」(←この言い方はかなり偏見あるよねw)よりも「ワイルドでカラフルな仮説」を立てる人のほうが一般受けするという現実がある。
前者イコール「地味な研究・泥臭い研究」,後者イコール「華のある研究」「オシャレな研究」
というようなイメージがあるんです。

私は,学者が,非専門家を相手取って物事を語る時,このイメージを方便として利用することを悪いことだとは思いません。
話の始めにそのような「一般受けするような」話で惹きつけておいて,だんだんとまじめな話にしていく,という作戦は大いにありだと思います。
しかし,最初から最後まで,一般受けするような話だけで終わってしまうというのは,まずいんではないかと感じています。
理由は,真実を正しく伝えていないからです。
地味な研究・泥臭い研究の中にも,(専門家でない)人々に知られていないけれど,間違いなく私たちのさまざまな社会的インフラの整備に一役買っているものが山とあるでしょう。
内田先生の物言いは,そのような「地味な研究」に対する国からの経済的支援の状況に,間接的に悪影響を与える可能性があるのです。
私はこの意味において,内田先生の「残念ながら」という言い方に,少し,無責任さを感じています。

このような議論は,右翼左翼議論にも似て,非常にやりにくいのですが(実証派と非実証派の不毛な対立が延々と続くだけ,というような気がするので),一応,私が感じたことを,可能な限り客観的な立場から,述べさせて頂きました。


<あとがき>

どうも,「絶対性」がまだ引っかかるようですね(ほり先生が理解されている意味で,私が理解できていない,という意味)。
私はいまのところ,ほり先生のおっしゃるところの「絶対性」という概念を持たないから,相対的に,ほり先生からすれば,私の考えは「人間関係ばかり」に映ってしまうのだと思います。
ただ一つだけ申し添えておきますと,私は,私の考えが「人間関係重視」的に思われることをあまり好みません。
なにか誤解の温床になるような気がしているからです。


私は絶対性というのは,「TVで言ってたから信じる」という発想に通じると思っています。なんでこういう発想になるかというと,TVの言うことが絶対だと思っているからですね。
しかし,このような発想は,(自分で物事を考えられる)大人として健全ではありません。

どうすれば,大人として健全であることができるのでしょうか?

答えは一つです。

「○○の言うことだから信じる」
「○○の言うことだから絶対」

という発想を禁止することです。
そしてこれは,「絶対性」という概念を禁止することに等しいのです。

(真の)学問というのは,基本的に,絶対性を禁止する立場からしか生まれてこない。
「絶対性を禁止する」イコール「あらゆることを疑うことができる」ということですから。

もし,「疑ってはならない事柄」というのが,一人の人間の内部に存在するとしたら,それは「絶対性」を禁止していない証拠です。

もし,私のいう「絶対性」の意味が,ほり先生のおっしゃる「絶対性」の意味と異なるものでしたら,(なにかもっと情報量の多い)別の用語でお互いが言い換えることでしか,双方の合意に至りうる道はないのではないかという気がしています。
絶対性における上位・下位概念 (ほり(管理人))
2007-10-26 19:51:18
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>一方,ほり先生はこれとは違う定義を採用されているようですね.

そのようです。

>「抽象化された原点」とおっしゃってられますが,どのように抽象化するのかが人によって違うのではありませんか?

そうです。で、養老先生も、いつだったのか「正義」等の抽象的な言葉になると、人によって定義が異なる、で、問題が生じる、等おっしゃってました。これは、コトバの定義の問題とも関わりますが、heisanさん上記の言は正しく、まさにその通りです。

>仮に「そんなことはない」とすれば,いったいどんな方法によって,生まれも育ちも異なる複数体の生物学的主体の間で,かかる原点を「完全に」共通に認識することができるというのでしょうか。

共通認識は無理です。(苦笑)はい。人によって、現実は違うものだし、コトバの定義も異なり、共通認識できる方がコワイです。

にもかかわらず、なぜ私が「絶対性」という言葉を用いるのかというと、人間関係という「人間にとってもの凄く重要なもの」が「相対性」に依存しているからです。(←ここ、強調したい。)(で、人間関係が相対性に依存していると言うことについては、決して譲れないなぁ。結婚相手を選ぶのも、「絶対にこの人!」と思うのが言わば錯覚に過ぎないように。(笑)時代が違えば、国が違えば、友人も変わり、親子の関係ですら、あり方付き合い方が変わる。そんな風に、とにかく周りに左右されるのが人間関係ですから「相対的」なものとしか言い様がない。)

じゃあ、「相対性」の反対は何かというと、「絶対性」ということになる。ならざるを得ない。で、たぶん、人間の認識は、その間を行き来してるのではないかと思うのです。「絶対性」は、「抽象化」という思考過程を経なければ決して生じ得ない概念ですから。

それでまた、heisanさんは、「共通認識」を求めていらっしゃるように思うのですが、私はその立場を取りません。
共通認識を持つとは、「正義」「民主主義」などの概念も共通と言うことになります。どうみても無理ですよ。

排他的に聞こえるでしょうが、「わかる人にはわかる、わからない人にはわからない」というのでいいんじゃないのかな。で、最初に戻るのですが、だから「人によって、軸足の置き方が変わる」ということです。
で、一言「抽象化」といっても、さまざまなレベルがあるわけで、絶対性もレベルが異なってくる。

ですから、heisanさんがおっしゃるような「絶対性」を「テレビの言うこと」に求める人がいてもおかしくない。国家によっては、「君主様」だったりするでしょう。

ただお互いに気になる問題が、「絶対性の基盤をどこに置くか」ということだったんですね、きっと。
だから、これが引っ掛かって、heisanさんは、また、私もそんな書き方をしていたかも知れませんが、視点をごっちゃにして述べあった気がします。(うん、私もこのことを意識的に明確にせずに述べたかも知れません。今、自分でもよりはっきりして、目が開いた感じがするから。(笑)どこをどう書き間違えた、とは言えないけど。)

で、私の場合は、絶対性の基盤が「数学の原点」だったり、ひょっとして荘子の「にわかに無がある」だったりする。私の場合の「絶対性」は、そこまで遡らせるということです。これ以上は、私は無理。(笑)
「数学の原点」とか「ゼロ」という概念とういう抽象性に、もの凄く深い感動を覚えるのですよ。原点は、「問うてはならない」のです。相対性を排除するために、どうしてもそうなる、そうならざるを得ない。

たぶん、人間の認識の仕方には、そんな「脳のクセ」があるはずなんですよ。
で、繰り返しになるけれど、「基盤」の浅い人から深い人までいるということです。で、確かに、浅い人にとっては「テレビの言うことが絶対」という捉え方が出来ます。(で、私は、これも「人間関係」と捉えたわけですね。)

ふむ。大分、まとまってきたような気がしますが。

さて、内田先生。

>一般に、学者というものは学術情報の蓄積がある閾値を超えたところで「ワイルドでカラフルな仮説を立てる人」と「重箱の隅をつつく人」に二極化する。
それまで自分が蓄積してきた学術情報が「次のレベル」へジャンプするための「カタパルト」とみなして、それを「踏み台にして棄ててゆく」人と、それまで自分が蓄積してきた学術情報を「お宝」とみなして、それを退蔵して飾り立てる人の二種類にわかれるのである。
残念ながら、90%の学者は後者である。
原理的に言えば、あらゆる学術情報は「棄てるため」にある。

上記、内田先生のブログからの長い引用です。
「残念ながら」に入る90%の学者を、私は『重箱の隅をつつく人』より、『それまで自分が蓄積してきた学術情報を「お宝」とみなして、それを退蔵して飾り立てる人』と取りました。
こっちの方が、『後者』という語に近いところに書いてあるし、一度述べたこと(『カラフル云々、重箱云々』)を、そのすぐ後でより詳しくわかりやすいように言い換えて述べるのは、レトリックとして多用されるものです。(ちなみに、英語の授業で「わからなかったらどんどん次を読め。次により詳しい説明がなされている。」と毎日指導している事項です。)で、そう言う読み方の方が読解の方法として順当かなと。「重箱云々」は筆が滑ったと取る方がいいんじゃないのかなと私は読みました。
この点がheisanさんと読み方が違ったんじゃないのかな。

で、私の氷山の譬え(勉強や学問とは、海に浮かんだでっかい氷山の山を削ることである。しかし、氷山だから、どんなに削っても削った分だけ浮かび上がってくる。それでも、浮かび上がってきた山を削り続けるのが勉強や学問なのだ、というたとえ。)で言うと、「後者」は「一生懸命に氷のヤマを崩して出てきた欠片を大事にする人」になります。で、『それまで自分が蓄積してきた学術情報が「次のレベル」へジャンプするための「カタパルト」とみなして、それを「踏み台にして棄ててゆく」人』は、砕いた欠片に興味を持つより、性懲りなく(?)浮かび上がってくる氷の「未知なる山」に挑み、これでもか、これでもか、と削り続ける人。
と、私は解釈します。(うん、このたとえ、とっても便利♪)私は内田先生に深く同意します。

>(真の)学問というのは,基本的に,絶対性を禁止する立場からしか生まれてこない。
「絶対性を禁止する」イコール「あらゆることを疑うことができる」ということですから。

ここは深く同意します。
しかし、もう一つのコメントで述べられた「法則性」であろうと、「法則」は演繹することで得られるものですから、抽象の一種です。で、抽象とは、差異を捨てて丸めて一つにすることだから、結局、「絶対性」に繋がっちゃうんですよ。(たぶん、この認識が私とheisanさんとで違うのだろうな。)
「法則」は、ある基盤の元では必ず当てはまっちゃいます。その意味では絶対性を持つ。(当てはまらないモノが出てきたら、それでも当てはまる更なる「法則」を見付ければいい。理論物理学者がやっているのは、これでしょう。)
「法則性」は「絶対性」の下位概念なんです。で、下位概念の方がより具体的だから、より多くの人が理解しやすいものなんです。「抽象」より「具体」の方が理解しやすいから。

「絶対性」ということを私はしきりに述べていますが、「絶対性」は、人のアタマの中にしかないんです。どこを見渡しても「ない」のです。「原点」も「無」も。有るのは、それを理解する人のアタマの中だけに概念として存在するだけなんです。「それを理解する人」ってのがちょっとイヤらしいけど、仕方ないです。たぶん、heisanさんより私の方が抽象化の能力は高いんじゃないのかなと思います。

で、私が理解できる(かな?と思われる)「絶対性」の限界が、「(あらゆる次元における)原点」と「無」だということなんです。また、この考え方が絶対神に繋がるってのもわかるな。(自分が信仰しているわけじゃないけど。)

でも、それ以上の「上位概念」は、私には全くわからない。これ以上の上位概念に一体どのようなコトバで表現されるものがあるのかも、私は知らないしわからない。ひょっとしたら既に多くを聞いているのかもしれません。しかし、私には理解できないから「ない」も同然で、本来は更に上位の概念のものであっても、私は「それは原点だ」と丸めてしか捉えることが出来ないでしょう。
うん、きっとそうだな。

世界は相対的である。まる。 (heisan)
2007-10-26 20:53:48
> 「正義」等の抽象的な言葉になると、人によって定義が異なる、で、問題が生じる

> 共通認識は無理です。(苦笑)はい。人によって、現実は違うものだし、コトバの定義も異なり、共通認識できる方がコワイです。

> 人間関係という「人間にとってもの凄く重要なもの」が「相対性」に依存しているからです。(←ここ、強調したい。)

上の3つの事柄に激しく同意します。



> じゃあ、「相対性」の反対は何かというと、「絶対性」ということになる。

この「じゃあ」が分からないのです。
なぜ,「相対性の反対は何か」を考えなくてはならないんでしょうか。
「人間関係は相対的なものである。まる。以上」
これでいいんじゃないですか?

仮に「人間関係が持つ相対的な性質」と対をなす性質があったとしても,わたしはそれは「絶対性」ではないと思います。

これまで絶対的だと思っていたものが,井の中の蛙状態から脱出することによって,「ああ,なんだ,実はこれは相対的だったんだ」と分かることはあるでしょうが,逆はないと思います。
理解の深化によって,

 絶対性→相対性

は有り得るけれど,

 相対性→絶対性

はなさそう。

「世の中を理解する」というのは,とどのつまり,「世の中を相対化する」ということに他ならない(もちろんこれ以外にも,分ける,とかあるけど)。
小さな子どもにとって,親は絶対的な存在ですが,大きくなるにつれて,「実は絶対的でない」ということを悟っていく。
あきらめの悪い子どもは,親の代わりになる絶対的な存在を探し求めて旅に出る。
でも,そんなものはない。
それが答え。
それでいいんじゃないですか?
だって,それが答えなんだから。
(「絶対的な存在を求める」ということは,大人から子どもへ逆行する姿勢を意味します)



> 共通認識を持つとは、「正義」「民主主義」などの概念も共通と言うことになります。
> 排他的に聞こえるでしょうが、「わかる人にはわかる、わからない人にはわからない」というのでいいんじゃないのかな。

これは,なんとなく分かります。
ここで私が確認しておきたいのは,「現状」(現実)と「目指すべきところ」(理想)の区別です。
「共通認識が持つ」というのは,「目指すべきところ」です。
「わかる人にはわかる、わからない人にはわからない」というのは,「現状」です。
これがごっちゃになっている気がします。


> ただお互いに気になる問題が、「絶対性の基盤をどこに置くか」ということだったんですね、きっと。

この日本語が分かりません。
「絶対性の基盤をどこに置くか」というのは,どういう意味でしょう?
絶対性などという概念を認めていない人は,どこにおくもなにも,そもそも,置くものが存在しないのだから,置きようがない。

「絶対性の基盤」という言葉の意味もまた分からないです。
(なんか,この辺りから,「養老節」に引きずり込まれていっているような気が・・・笑)
「基盤」って何でしょうか?


> ふむ。大分、まとまってきたような気がしますが。

全然分かりませんww


> 「基盤」の浅い人から深い人までいるということです。

「基盤」は,浅かったり深かったりするようなものなのですか?



> 「法則」は演繹することで得られるものですから、

「法則」は帰納することで得られるものです。


> 下位概念の方がより具体的だから、より多くの人が理解しやすいものなんです。

これは分かります。


> 「法則性」は「絶対性」の下位概念なんです。

「絶対性」という言葉の意味が定義されていない状況下でこう言われましても。。。
なんか,「法則性の上位概念としてあるものを絶対性と呼ぶ」と言われているようで,むなしい気分になるんですが…(笑
(「はあ,そうですか…」としか言えない。定義された「絶対性」の概念にぜんぜん感動しない,という…)


> 「絶対性」ということを私はしきりに述べていますが、

はい,確かにしきりに述べておられます。
# 私には,その意義が全く伝わってこないので,こうしてお訊ねしているわけですが…w



> 「絶対性」は、人のアタマの中にしかないんです。

ほり先生(と養老先生とその仲間たち?)のアタマの中にしかない,と言わないと正確ではないでしょう。


> どこを見渡しても「ない」のです。「原点」も「無」も。

原点というのは,足もとのことで,「それを問うてはならない」とほり先生がおっしゃるのは,「それを問うてみたところで,答えは出ない」という意味だと思うのですね。「なぜ原点がそこにあるのか」と問うことは,「なぜ私はここに居るのか」を問うことに等しいからです。


> 有るのは、それを理解する人のアタマの中だけに概念として存在するだけなんです。

別に「絶対性」でなくても,そういう概念っていっぱいありますよねぇ…


> で、私が理解できる(かな?と思われる)「絶対性」の限界が、「(あらゆる次元における)原点」と「無」だということなんです。

「最上位の上位概念」を指す日本語として,もっとも「それっぽい」のが「絶対性」という言葉なのかなと思います。
「最上位の上位概念」を「絶対性」と呼ぶことにする,というルールを定めることによって,ほり先生はどのような幸せを感じていらっしゃるのでしょうか。
ご教示いただければ幸いでございます(_)
論点はココ!(たぶん) (heisan)
2007-10-26 21:16:44

> で、私の場合は、絶対性の基盤が「数学の原点」だったり、ひょっとして荘子の「にわかに無がある」だったりする。私の場合の「絶対性」は、そこまで遡らせるということです。これ以上は、私は無理。(笑)
>「数学の原点」とか「ゼロ」という概念とういう抽象性に、もの凄く深い感動を覚えるのですよ。原点は、「問うてはならない」のです。相対性を排除するために、どうしてもそうなる、そうならざるを得ない。

ここが「最も重要な記述」だと思うのですが,悲しいかな,私にとって,ここが「最も分からない記述」です。
「そこまで遡らせる」って,どこまで遡らせるんでしょうか。「そこ」というのはどこでしょうか。

「ゼロ」の発明は確かに凄いと思います(感動ものだと思います)。
「原点は問うてはならない」というところの言及に,なぜこれほどまでに力が入っているのか,が私には分かりません。
感動の表現としてなのか,それとも別の意図があるのでしょうか。(前者であれば話は早いのですが,どうじゃなさそうな可能性が高い・・・)

何度か申し上げておりますように,「原点」というのは起点という意味であり,「ここを出発点として決める」「ここを基準にする」というだけの話ですから(国語辞典でも,「基準になる点」とあります),それがいやなら別の箇所を原点に取ればいいだけの話です。
最初に戻っちゃうんだけど。。 (ほり(管理人))
2007-10-26 22:19:34
heisanさん、早速のコメントをありがとうございます。

>この「じゃあ」が分からないのです。
なぜ,「相対性の反対は何か」を考えなくてはならないんでしょうか。
「人間関係は相対的なものである。まる。以上」
これでいいんじゃないですか?

そうですね。heisanさんのおっしゃることは正しい。でも、(この「でも」がまた、「わからない」と言われるような気がするけど)「heisanさんのように、『世界は相対的なものである。まる。』と考えない種類の人間がいる」ということなんですよ。

それがたぶん、私とか、時折「同じニオイがするな」と私が感じる人たち。(笑)養老先生は、ホントに深いから、私の脳味噌のずっと先の方にいる、って感じかな。

heisanさんと私の違いが、ちょっと前の記事に書いた「絶対性重視の考え方をする人」と、「人間関係(相対性)重視の考え方をする人」に、軸足の置き方が人によってぱかっと見事に分かれる、ってことなんです。
まあ、ぶっちゃけていうと、相容れない。(苦笑)

まあ、例えば、「勉強をする」ってのは、「法則性」にせよ、ある基盤(ニュートン力学が応用できる範囲でも良いし、英文が読める、でもいいし、何でも良いけど)の元で、特定の、つまりは、相対的でない、たとえその場限りかも知れないけれど「絶対の」尺度をもってしないと、できないのです。Appleを覚えるときは、appleと綴らなければならない。それは「絶対」に含まれるでしょう。
こういった考え方を人はどこかに、意識するしないに関わらず、持つ。でないと、勉強は出来ない。学問はない。文明もない。

想像するに、そういった考え方、物事の捉え方の「道筋の付け方」が強く表に出てくる人と、そうでない人がいるんじゃないのかな。
で、強く表に出したがる人間が、私。そうでないのがheisanさんじゃないかなぁ。

まあ、「勉強」なんてしなくても、基本的に「生き物
」として生きていけるんです。飲み食い排泄さえ出来れば。
でも、人間は、社会的存在として言語を操るようになった。言語は、「抽象」です。で、必要のないことまで考えるようになった。
まあ、私が言っているようなことは、heisanさんのおっしゃるとおり「世界は相対的である。まる。」以外の、「必要のないこと」なんですよ。はっきり言って。
だから、禅とか荘子にしても、「そういう余計なことを捨て去れ」といってるのだと思います。(笑)
で、おっしゃるとおり、「足元を見よ」と。「飯を食べてないなら、メシを喰え。茶碗を洗ってないなら茶碗を洗ってないなら茶碗を洗え。」とか。まあ、うだうだ言うなということでしょうから。

でもね、これがね、うだうだ言いたがる人間がいるんですよ、それが私。(笑)

>「基盤」って何でしょうか?

「テレビ」が基盤の人もいれば、「絶対神」が基盤になる人もいるような基盤。ただ、階層というか、地平というか、次元が違うものです。

>「そこまで遡らせる」って,どこまで遡らせるんでしょうか。「そこ」というのはどこでしょうか。

「そこ」は、「違う地平」「次元が異なるところ」です。
こういった疑問内容から推察することですが、heisanさんが、養老先生をあまり好まない(という表現が相応しいかどうかわかりませんが)のは、入れ子思考的な、階層的な考え方をしないからだと思います。
養老先生は、滅茶苦茶、階層的な考え方を取ります。で、上がったり下がったりする。それが養老先生の最大の面白さです。でも、これに面白さを感じないのは、階層的な思考をしないからでしょう。

>「法則」は帰納することで得られるものです。

帰納と演繹を間違えました。すみません。ご訂正をありがとうございます。

>「原点は問うてはならない」というところの言及に,なぜこれほどまでに力が入っているのか,が私には分かりません。
>それとも別の意図があるのでしょうか。(前者であれば話は早いのですが,どうじゃなさそうな可能性が高い・・・)

はい、「感動」ではないです。
あくまでも、「n次元上の原点」だから。まあ、3次元か4次元しかわからない人間には定めようがない「原点」です。でないと、n次元という設定が出来ません。
「人の足元」は、3次元です。でも、n次元ではそうならないでしょう。(自分がn次元の原点だなんて、あり得そうにないから。)

広辞苑の定義は、n次元の原点から敷衍された定義に過ぎないと考えます。

>「最上位の上位概念」を「絶対性」と呼ぶことにする,というルールを定めることによって,ほり先生はどのような幸せを感じていらっしゃるのでしょうか。

「幸せ」とかじゃないんです。幸せになるためにそう考えているわけではないんです。ひとりでに、そう考えちゃうわけ。(入れ子思考が徹底しているのでしょうね。)
なぜでしょうね。不思議ですね。

「絶対」ではなく「伝統」「師」 (heisan)
2007-10-27 02:00:08
> heisanさんと私の違いが、ちょっと前の記事に書いた「絶対性重視の考え方をする人」と、「人間関係(相対性)重視の考え方をする人」に、軸足の置き方が人によってぱかっと見事に分かれる、ってことなんです。
> まあ、ぶっちゃけていうと、相容れない。(苦笑)

私は,相容れると思っているからこそ,こうしてここに文章をしたためるエネルギーを失わないのです。
ではなぜ,相容れるはずなのに,相容れないっぽく見えているのか?
その理由は以下です。

まず私が申し上げたいことは,この分類--絶対性重視派と相対性重視派という分類--はおかしいということです。
おかしいというのはどういうことかというと,「こういう分類が存在する」という命題が偽である,ということです。

(私が)こういう分類が好きとか嫌いとではない。
好き嫌いの問題ではなく,真であるか偽であるかの問題です。

このような「誤った」分類が生じてしまった原因は何でしょうか。
私は,推論上の瑕疵にあると考えています。

だから,その瑕疵がどこにあるかを頑張って探して,それを明示的に記述することで,おかしさを説明しようとしています。


> 「勉強をする」ってのは、「法則性」にせよ、ある基盤(ニュートン力学が応用できる範囲でも良いし、英文が読める、でもいいし、何でも良いけど)の元で、特定の、つまりは、相対的でない、たとえその場限りかも知れないけれど「絶対の」尺度をもってしないと、できないのです。

ふむふむ。
それは「師」を持つということですね。
勉強をする上においては,常に「師」という存在が居ます。
勉強,その心は,「師に倣い,師を超える」ことに集約されます。
この「師に倣い」の部分が,ほり先生の言う「絶対」に相当するのでしょう。
そして,「師を超える」の部分は,私が前のタイトルで書いた「絶対性の禁止は学問の原点」というのに対応するのでしょう。


> Appleを覚えるときは、appleと綴らなければならない。それは「絶対」に含まれるでしょう。

あ,そうか,ほり先生は,「子どもになれ!」って言われているのですね。
子どもにならないと,「伝統を妄信する」という所業をおかすことはできませんから。

敢えて,「井の中の蛙」状態になりにいくことによって,或る種の勉強ができる。
例えば,appleという綴りを覚えるとか。

ここで興味深いことが見えてきました。
それは,「絶対性を棄てること(疑ってかかること。認知した対象に絶対性という特徴を認めるという態度を棄てること。)が学問の原点」であるにもかかわらず,「絶対性を棄てないこと(疑わず,根拠なしに信じること。認知した対象に絶対性という特徴を認めるという態度を持つこと。)もまた学問の原点」である,という経験的事実です。

ほり先生がなされた推論上の瑕疵とは,「どういう認知対象であれば絶対性を認めるべきであり,どういう認知対象であれば,絶対性を認めるべきでないのか」の判断を,恣意的に与えてしまった,という点にあると思います。

恣意的に与えるとはどういうことか。
それは,こういうことです。
例えば,「Apple」というのは認知対象です。
一方,「TVで言ってること」というのもまた,一つの認知対象です。

もし,「TVで言っていること」を頭ごなしに信じるのはよくない,ということの正しさを認めるならば,「Appleの綴りがappleであること」を頭ごなしに信じることはよくない,ということもまた同様に「正しい」(真である)と判定されなければなりません。

つまり,論理的には,「どちらも真」か「どちらも偽」かのどちらかです。
これ以外の判断をしようとするならば,別の条件を導入しなくてはなりません。
別の条件の導入なしに,これ以外の判断を行なった場合,その判断は「恣意的である」とのそしりを免れ得ないでしょう。

一般に教師は,生徒が「TVで言ってたから信じた」と言ったら嘆かわしく思うでしょうが,生徒らがそういう風に言うようになっているのは,「伝統に(疑うことなく)従え!」と長年教えられてきた教育の成果によるものではないでしょうか。

「TVで言っていることも,簡単には信じないぞ」という態度で応じる生徒は,語学学習においても同様の態度を発揮し,「Appleの綴りはなぜappleであるのか」という懐疑の念を無視することができず,学習に支障をきたすことでしょう。

一方,「Appleの綴りはなぜappleであるのか」なーんてこと考えたこともない,っていう生徒は,日常生活においても同様の態度を発揮し,「(TVを見て)ふ~ん,そうなのかー。」といともたやすく信じてしまうことでしょう。

もし,教師が本当に「Appleの綴りのほうは素直に受け入れて,TVのほうは自分で再考する精神」を生徒に身につけてもらいたいとを望むのであれば,どういう認知対象なら前者に分類され,どういう認知対象なら後者に分類されるのか,ということをも含めて教育をする必要があります。
何なら根拠なしに信じてよくて,何なら根拠があるかちゃんと確認してから信じるべきなのか。
そういうことの分別なしに,絶対性もくそもないと思います。

まぁ,私は,「絶対性」というのを一つのキーワードとして用いることに,「ほとんど生理的な嫌悪」を覚えていますが(←こちらは,好き嫌いの問題。だって分かりにくすぎるんだもーん(笑)。情報量少なすぎるし。誤解発生確率高すぎだし。)...



> heisanさんが、養老先生をあまり好まない(という表現が相応しいかどうかわかりませんが)のは、入れ子思考的な、階層的な考え方をしないからだと思います。
> 養老先生は、滅茶苦茶、階層的な考え方を取ります。で、上がったり下がったりする。それが養老先生の最大の面白さです。

これは「断固」否定させて頂きます。
おそらく,階層的な考え方にも種類があるのでしょう。養老先生的考え方は,あくまでその一つだと思います。


> でも、これに面白さを感じないのは、階層的な思考をしないからでしょう。

これは,「養老先生的な思考以外の階層的な思考を知らない」または「養老先生的な思考が,階層的な思考の全てであると思っている」という「井の中の蛙」状態にあることから生じる誤解であるかと思われます。




> 「人の足元」は、3次元です。でも、n次元ではそうならないでしょう。(自分がn次元の原点だなんて、あり得そうにないから。)

ん? そうでしょうか?
わたしは「あり得そう」に思いますが・・・

「3次元上の原点」は問うてよくて「n次元上の原点」は問うてはいけないという,その理由が不明です。



> 「幸せ」とかじゃないんです。

訊ね方がよくなかったようです。
# 本音を言うと,予想だにしないところに突っ込みが来て驚いていますw

「最上位の上位概念」を「絶対性」と呼ぶことにすることは,どのようにうれしいのでしょうか(どのようなごりやくがあるのでしょうか)。
何がうれしくて,そのように呼んでいるのでしょうか。


<最後に《独り言》>
(また「伝統」とか「師」とか言うと,「それは『人間関係』の一つで…」みたいに,人間関係の話にもっていかれるんだろうなぁ…。やだなぁ…(笑) だから「その分類自体が間違ってますよ」「『人間関係』と『絶対性』を対置させるというピットフォールから脱出しない限り,真の理解は有り得ない」と申し上げておりますのに。。(笑))
これって、「学問観の違い」かも。 (ほり(管理人))
2007-10-27 10:41:08
heisanさん、たびたびのコメントをありがとうございます。

難しいですねぇ。。

>それは「師」を持つということですね。
勉強をする上においては,常に「師」という存在が居ます。

「師」という言葉を使われると、「ちょっと待て」と思います。なぜなら、「師」は「人」だからです。

heisanさんの説だと、appleの綴りであっても「人々の合意」になりましょうが、(「綴り」を例に出したのがまずかったかな?)私が言いたかったのはこういうことです。
例えば、「appleが、英語を運用する人たちの間でどのように使われているか」を研究することによって「appleとはいかなるものか」を理解することが勉強だったり、学問だったりすることだと言いたいのです。

どこかに似たようなことを書いていると思うけど、appleだったら、appleそのもの、appleが使われている状況そのもの(つまり対象)に直接対峙する態度を私は言いたいのです。
そこから帰納的に(←帰納で良いよね)導き出す態度が本来の「勉強」、「学問」だと思うわけです。(で、演繹して確かめるというか。)
私はそれを「絶対性」と呼びたいわけ。

よって、「対象から帰納的に抽出されるもの」は「人によって異なります」。ぞれぞれの絶対性に準拠する故、このようなことが生じると考えます。
「学説」は、このように生まれてくるのではないでしょうか。(西巻氏のVSOPも同様な経緯を辿っているはずです。)

よって、テレビの言説を信じるのも、「テレビの言っていることだから正しい」というのは、あまりにも浅い基盤に基づいていると思うのです。
理由は、「テレビの言っていることは正しい。なぜなら、大勢の人が聞いているからだ。テレビに出ることはすごいことだからだ。」は、「多くの人に認められることは正しい」が論拠になっているからです。
よって、私の目には「その時代、社会に存在する多くの人という相対性」が「人間関係重視」の態度に見えまず。
一方、そのように考える人にとっては、「テレビの言っていることは正しい。(以下同文)」を疑わない「(非常に浅い)絶対の基盤」に立つ言説になっているということです。

まあ、上記appleの例との違いは、appleの場合は、appleが使われている状況をつぶさに観察し(当然、文献も含まれ、自然科学や歴史的背景とも結びつくものです。)、そこから「ふわりと立ち上ってくるような」なんらかの抽象性(法則性でも構いませんが)をつかみ取る。よって、「他人」が介在する余地が基本的にないのです。「いかに抽象化するか」の過程が絶対性に準拠する考え方で、「相対的な態度」とは言えないと思うのです。(何と相対しているかがわからないからです。)
あくまでも、「対象」と「自分」が直に対峙しているわけですから。(これは相対的ではありません。自分が変われば対象が変化する、ということが有りませんから。対象はあくまでも対象としてしか存在しません。変化するのは「自分」だけです。)今の例はタマタマ人が用いる「言語」ですが、これが「昆虫」であっても、「天文学」であっても基本的な考え方や姿勢に何の違いもないのですよ。

う~ん、対象をつぶさに観察する、そこから帰納的に何かを抽出するという「抽象化の過程の有無」を「絶対性の有無」と捉えるとした方が良いのかな。

本当の学問をするというのは、「師」を通しても、師の「仰角」を大事にすることでしょう。(内田先生が言ってるけど。)「仰角」は、「師」ではないのです。「師」を通してみる「対象そのもの」なのです。(だから、師を越えることが出来る。)

heisanさんは、ここをごっちゃにしてるんじゃないのかなぁ。。

>「3次元上の原点」は問うてよくて「n次元上の原点」は問うてはいけないという,その理由が不明です。

なぜなら、n次元は人間の理解を超えた次元だからです。我々が理解できるのは、3次元空間だけだから、今の空間を3次元を越えて考えることは出来ないのです。ですから、「自分のいるところがn次元の原点だ」と考えるのは自由ですが、heisanさんのいるところが原点で、私のいるところも原点となれば「相対性」の問題で(heisanさんは相対性に準拠するからそれでいいけど・笑)、n次元の原点が2つ存在する。これはおかしい。「heisanさんの世界観の原点がheisanさんのいるところ」という世界観ならそれでいいです。しかし、問題にしたいのは、「それを越えた次元」だから、困る。「heisanさん以上」の抽象性を導き出すことが出来なくなりますから。「階層性」とは、そういったことがかかわると思います。

う~ん。。「抽象性に向かう態度」が「絶対性」に関わるのでしょうね。
「相対的で良いじゃないか」という態度を取る限り、「それ以上の抽象に到達できない」というべきかもしれませんね。その方が理解しやすいかもしれません。

繰り返しになりますが、私の言っていることは、人間が生きていく上で「必ずしも必要のないこと」なのですよ。

>「最上位の上位概念」を「絶対性」と呼ぶことにすることは,どのようにうれしいのでしょうか(どのようなごりやくがあるのでしょうか)。
何がうれしくて,そのように呼んでいるのでしょうか。

「ごりやく」を求めてるわけではないのですよ。
たとえば、数学者に「ごりやく」を求めて研究している人がいると思えないけど。「フィールズ賞が欲しい」と思えば「御利益」でしょうが。(笑)それは、すでに、学問を「道具」にしちゃっているわけです。「名誉が欲しい」とか。(まあ、人間として自然な感覚だとは思いますが。)

先日のテレビNHKの番国でやってたけど、100年間誰も解けなかった「ポアンカレー予想」(だっけ?)を解決した数学者が、フィールズ賞を辞退したのは、私の言う絶対性重視の典型でしょうね。
彼は抽象の世界に入り込んでしまった。それゆえ失踪し、人づきあいも無くなったのかな。

その生き方が「人として幸福かどうか」といえば、たぶん、「不幸」に近いことでしょう。でも、きっと、人間(の一部)には、そういう側面がある。上記の数学者は、これが極端な形で表面化したのでしょう。彼の心の底にあるのは、絶対性重視の考え方でしょうね。
でも、一般人の我々の現在の生活には、絶対性重視の考え方に基づいて発達した学問の恩恵がある。これは事実です。

heisanさんとの食い違いは、要は、「学問観の違い」ですね、きっと。
端的に言うと、学問を「目的」とするか、「道具」とするか、です。で、ついでに言うと、今は、「道具」と考えるのが主流の時代です。(だから、基礎学問が軽視される。学校の勉強は、「試験対策」という「人間関係」重視の態度になっている。)
私はもちろん、「学問目的派」(←造語)です。(笑)

>だから「その分類自体が間違ってますよ」「『人間関係』と『絶対性』を対置させるというピットフォールから脱出しない限り,真の理解は有り得ない」と申し上げておりますのに。。(笑)

これを「学問観」という視点から捉えたらどうなるかしら?(私の相対性重視、絶対性重視のそもそもはここに端を発しているから。) 
私の学問観をheisanさんがどのように捉えるか、heisanさんの学問観を私がどのように捉えるか、という視点に置き換えるといいかもしれない。

絶対という言葉さえ使用しなければ全てが氷解するはず (heisan)
2007-10-27 11:43:24
> 「師」という言葉を使われると、「ちょっと待て」と思います。なぜなら、「師」は「人」だからです。
# ほら来た!(笑)人間関係にもっていかれる予兆その一(笑。
# 「人は人によってしか教育されない」という基本的事実を失念したご発言としか思えませぬ(笑


> heisanさんの説だと、appleの綴りであっても「人々の合意」になりましょうが

合意というよりかは,「伝統(又は師)への服従又は模倣」です。
話し合って決める(合意に至る)というレベルではないのです。すでに決議は終了しており,自分はその決定事項にしたがうという選択しかできない,という状況。


> 例えば、「appleが、英語を運用する人たちの間でどのように使われているか」を研究することによって「appleとはいかなるものか」を理解することが勉強だったり、学問だったりすることだと言いたいのです。
> どこかに似たようなことを書いていると思うけど、appleだったら、appleそのもの、appleが使われている状況そのもの(つまり対象)に直接対峙する態度を私は言いたいのです。
> そこから帰納的に(←帰納で良いよね)導き出す態度が本来の「勉強」、「学問」だと思うわけです。(で、演繹して確かめるというか。)
> 私はそれを「絶対性」と呼びたいわけ。

> よって、「対象から帰納的に抽出されるもの」は「人によって異なります」。ぞれぞれの絶対性に準拠する故、このようなことが生じると考えます。

結局,「人を信じるな。」「自分だけが頼りだ。」という姿勢が,勉強の姿勢である,とおっしゃりたいわけですね。それならば分かります。
「人を介さずに対象に対峙する態度」のことを絶対性と呼びたいわけですね。なるほど。

だとすればそれは,「絶対」という日本語の意味を根本的に取り違えていらっしゃるように思えます。
「人の言うことを安易に信じなさんな。自分の頭で考えよう。」と一言言えば済むのに,絶対性などと言う曖昧な(曖昧で綺麗な)言葉を使うから,正義や愛国心という言葉を多用する人たちと同じピットフォールに陥ってしまっているように,私には思えます。
これを絶対性と呼ぶことは,愛己心(@T.Uchida)のことを愛国心と呼ぶのと同じくらい高慢なことではないかと,私は思います。



> n次元の原点が2つ存在する。これはおかしい。

原点が複数個あることは,別に支障をきたしません。
要は「座標系の取り方」の問題ですから。



> 繰り返しになりますが、私の言っていることは、人間が生きていく上で「必ずしも必要のないこと」なのですよ。

ここは問題ありません。



> 「ごりやく」を求めてるわけではないのですよ。

# あ,また噛みつかれた!(笑 だから!(笑 そこは本質的じゃないから! 揚げ足取りだから…
# で,非本質的なところで噛みつくだけ噛みつかれて,当の問いには答えてもらえず。。(悲



> heisanさんとの食い違いは、要は、「学問観の違い」ですね、きっと。

No!
食い違いは,絶対性という言葉を使うかどうかです。その一点です。
本質的には,食い違いはないのですよ。


> 端的に言うと、学問を「目的」とするか、「道具」とするか、です。

私は別に学問を道具になんかしておりませんよ。
もし,私の「ごりやく」や「幸せ」という言葉から,「こやつは学問を道具にしておる」と連想されたのであれば,それは大いなる誤解です。
どうか,ご訂正頂きたく思います。


> 私はもちろん、「学問目的派」(←造語)です。(笑)

私も同じですよ,一応(笑
つまり,学問観の違いではない,ということです。

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