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決まりだから守るという考え方は、決まりを作れるようにならない

2009年09月01日 | 教育
 校則でも法律でも何でも良いが、ときどき、あるいは、非常にしばしば、「これは決まりだから守らなければならない」という言い方がされる。で、非常に説得力を持つ。一般的な世間では、これで十分に通るが、「教育」という観点で考えると、それではいけないだろ、と思う。
 2つの観点がある。

 一つは、「決まりだから守れ」という考え方では、「決まりでなければ守らなくて良い」という考え方を生みやすいからだ。これは、「決まりさえ守れば良い、決まりだけ守れば、後は好き勝手にやって良い」になる。学校でも、生徒によっては、いかがなものかと思われる事柄について「校則で決まってないのだからいいだろ、なんで注意されなければいけないんだ」と食ってかかってくる理由に使われる。しかし、現実の社会は、明文化された決まりだけで回っているのではなく、不文律や良識、常識、一般的に不快を忌避する感情が、目に見えるところ、見えないところで機能している。よってこれらを持ち合わせていない場合、また、こういったものに温度差があるとき、不文律や良識等のレベルが高い方にとって、直接的に困ったことが生じたり、軽微な場合は迷惑を被るということになる。現実の社会は、明文化された法律は、基本的に、最低限の秩序維持に使われているだけだから、それだけで世の中が心地よく回るはずがない。将来の社会の構成員を育てるという教育のそもそもの原点から言うと、「決まりだから決まりを守れ」は、明文化されていないものの涵養を図れないないゆえ、教育というにはあまりにお粗末なのである。

 もう一つは、「決まりだから守れ」という考え方は、既に決まってしまっている事項に対する絶対的な信頼が前提にあるから、前提に疑いを持てなくなることだ。
 しかるに、これは、本当の勉強、学問をする姿勢から大きく外れる。真に勉強をすれば誰でも気がつくことだろうが、勉強の前提は、「これって、どういうこと?」と言う疑問で、しかも、この疑問は平面的なものであってはならないということである。「何故こうなったのか」、「そうである意味が何であるか」を問う態度がないことに学習は進展しないし、深化もしない。「AはBなんだって」「あ、そう」で、終わりであれば、勉強も学問も終わりである。学校が勉強をする場であることを鑑みると、勉強が机上のものだけということになり日常に活かされてなければあまりにお粗末だということになる。

 その上で付け加えれば、なぜ、そういう決まりが出来たのか、その決まりがあることで、どんなメリットが考えられるのか、といった視点を持つことが大事であろう。それで、決まりに対する疑問があるから、よりよい決まりを作ったり、ない方が良い決まりを廃止することが出来る。
 もちろん、こういったことの理解は、教育を受ける側の能力によって異なろうが。

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