以下、恐ろしい推測。(笑)
禅の「不立文字」は、人間も感覚の世界に根ざしていることを表すのではないか。
人間は、言葉なくして生活しえない。言葉には「切る」作用がある。これは、感覚世界に根ざせば全てが異なるあれやこれやの存在物にどこかで線を引き、「これとこれは同じだと見なす、よって同じ名で呼ぶ」「これとこれは異なると見なす、よって異なる名で呼ぶ」と分類することである。抽象化である。
しかし、動物的なる存在としての人間は、もちろん、生き物としての「感覚」を有する。ところが、何せ人間は上記のような「言葉」を持ってしまったゆえに(正確には、抽象化思考をすることで、言葉を持つに至ったわけだが)、ややもすると、ひたすら抽象の方向に思考が進んでしまう。生徒を見ていても、同じ言葉で表現されるものに「差異」を見出す生徒は実は少ない。大抵は、「同じ言葉」で表現されれば「同じもの」だと捉える。「感覚」が忘れさられるわけだ。たぶん、人間は、そんな風に、「言葉を通した抽象化」が大好きな存在で、感覚で捉えた外部情報も、「言葉」というフィルターに掛けられると、大概のものを「同じ」と分類処理して思考を停止し感覚を麻痺させ疑うことをしない。
「不立文字」は、そこに異を唱える。こういった言葉に左右される思考法にそれこそ「喝」を入れると言うことだろう。
禅の「悟り」とは、ひょっとしたら「言語に象徴される抽象の世界」と「動物的な感覚の世界」の行ったり来たりを自由に行えることを示すのではないか。その意味で「次元」を異ならせて変幻自在に世界を捉える自由ということはないか。
幸運なことに、くだけた口語訳の禅の公案を時間を掛けて読む(?)機会があった(←タマタマである。)のだが、公案の意図するところは全然わからなかった。(笑)でも、ぼんやりと「印象」として残ったのが、これである。
多少なりとも合っているのか間違っているのか、わからないが、禅の修行が身体を酷使し、新しい展望を開くことを企図しているようにも思うから、どうだろうかと思う。
(追記)
「悟ったとき」は、「わかったとき」であろうが、「わかる」のはパチンと手を打ちたくなるような瞬間の出来事だろう。となると、「悟り」も瞬間だろうと予測される。(そこに至るまでの「助走」のようなものはあろうが悟りそのものは瞬間に訪れるのではないか、ということだ。)
「瞬間」とは、きっと「無時間」であると考えられる。「無時間」は視覚情報のような平面或いは空間モデルで表されるものだろう。となると、「言葉」とは相容れない。なぜなら、「言葉」は時間軸に依るからだ。言語は、瞬間のような無時間では決して表現されない。「考えを述べる」場合も、言語を使う限り「時間が掛かる」ということだ。
だから、ひょっとしたら、禅の悟りは時間軸に当てはまらない無時間モデルの「不立文字」なのか。
禅の「不立文字」は、人間も感覚の世界に根ざしていることを表すのではないか。
人間は、言葉なくして生活しえない。言葉には「切る」作用がある。これは、感覚世界に根ざせば全てが異なるあれやこれやの存在物にどこかで線を引き、「これとこれは同じだと見なす、よって同じ名で呼ぶ」「これとこれは異なると見なす、よって異なる名で呼ぶ」と分類することである。抽象化である。
しかし、動物的なる存在としての人間は、もちろん、生き物としての「感覚」を有する。ところが、何せ人間は上記のような「言葉」を持ってしまったゆえに(正確には、抽象化思考をすることで、言葉を持つに至ったわけだが)、ややもすると、ひたすら抽象の方向に思考が進んでしまう。生徒を見ていても、同じ言葉で表現されるものに「差異」を見出す生徒は実は少ない。大抵は、「同じ言葉」で表現されれば「同じもの」だと捉える。「感覚」が忘れさられるわけだ。たぶん、人間は、そんな風に、「言葉を通した抽象化」が大好きな存在で、感覚で捉えた外部情報も、「言葉」というフィルターに掛けられると、大概のものを「同じ」と分類処理して思考を停止し感覚を麻痺させ疑うことをしない。
「不立文字」は、そこに異を唱える。こういった言葉に左右される思考法にそれこそ「喝」を入れると言うことだろう。
禅の「悟り」とは、ひょっとしたら「言語に象徴される抽象の世界」と「動物的な感覚の世界」の行ったり来たりを自由に行えることを示すのではないか。その意味で「次元」を異ならせて変幻自在に世界を捉える自由ということはないか。
幸運なことに、くだけた口語訳の禅の公案を時間を掛けて読む(?)機会があった(←タマタマである。)のだが、公案の意図するところは全然わからなかった。(笑)でも、ぼんやりと「印象」として残ったのが、これである。
多少なりとも合っているのか間違っているのか、わからないが、禅の修行が身体を酷使し、新しい展望を開くことを企図しているようにも思うから、どうだろうかと思う。
(追記)
「悟ったとき」は、「わかったとき」であろうが、「わかる」のはパチンと手を打ちたくなるような瞬間の出来事だろう。となると、「悟り」も瞬間だろうと予測される。(そこに至るまでの「助走」のようなものはあろうが悟りそのものは瞬間に訪れるのではないか、ということだ。)
「瞬間」とは、きっと「無時間」であると考えられる。「無時間」は視覚情報のような平面或いは空間モデルで表されるものだろう。となると、「言葉」とは相容れない。なぜなら、「言葉」は時間軸に依るからだ。言語は、瞬間のような無時間では決して表現されない。「考えを述べる」場合も、言語を使う限り「時間が掛かる」ということだ。
だから、ひょっとしたら、禅の悟りは時間軸に当てはまらない無時間モデルの「不立文字」なのか。
この「論理」の大元は養老先生です。(笑)
養老先生は、ホントにアタマが良いです。
大昔から、みんなそんなことを考えてきたのだと思うと面白いです。でも、至った「考え」は、一人一人違うでしょうね。「考え」と書きましたが、ほんとは「考え」じゃない。その人の存在そのものが体現するものでしょうね。(って書きながらよくわからんけど・笑)
養老先生曰くの「やってみなけりゃ、わからない」世界観です。
でも、たぶん、この分だと、「やってもやってもわからない。」(笑) それで「ふつー」なのでしょうね。だから人生は、「過程」なんだって。
・・・考えるのが好きだった・・・
何時も 楽しく拝見させて頂き ありがとう
ございます。
今度は随分と難しい 不立文字 ですか・・
大変ですね。 如何に料理されるのか楽しみです。
道元禅師のことを 水野弥穂子先生の講義聞かない
といけませんね・・・
それにしても 正法眼蔵 全四冊 読むの大変だ。
道元さんは23か24の時 宋に勉強に渡ったとか。
今の生徒さんは良いな こんなに勉強する毎日
幸せですね。
次ぎは何を勉強するか 楽しみにしております。
さぁわたしもこれを機会に「道元禅師の人間像」
でも読みましょう・・
とんちん漢
私が書いていることを楽しんでいただけて嬉しいです♪
道元禅師のこと、お詳しいんですね。
私は教科書で習ったことくらいしか知らないし、たぶん、料理できないです。。(ご期待に添えずごめんなさい。)
水野弥穂子先生のお名前、初めて知りました。教えて頂いてありがとうございます。検索したら、本をたくさん書いてみえる方なのですね。
「不立文字」は、コトバを使っても使わなくても、きっと難しい。ホントのところは全然わからんです。
でも、わからないことがあっても、きっと、いい。というか、それでしかない。
私の能力をずっと遙かに超えています。(笑)