古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

五代 友厚-125

2016-10-08 05:25:28 | 長崎の歴史



昭和の時代、業務空間拡大のため、
一時は高層ビルへの全面建替えも計画されたが、
3面の外部の壁面と内部の重要な部分を保存し、
西側敷地に高層棟を新築した。
予約すれば、
旧館の内部や新館の営業室などを見学することができる
(大阪市北区中之島2-1-45)。

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五代 友厚-124

2016-10-06 06:15:57 | 長崎の歴史



中之島の邸に運ばれた。
中之島邸にて葬儀が執り行われたが、
葬儀には大阪の恩人・
五代を偲ぶ4千数百名の弔問客が訪れ、
棺は淀屋橋を南に渡り東へ、
心斎橋筋を南下して高麗橋通を東へ堺筋まで行き、
堺筋を南下し、
阿倍野墓地に向かった。
江戸時代この地には島原藩蔵屋敷があり、
明治初期には関西財界の
指導者五代友厚の別邸があったそうだ。


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五代 友厚-123

2016-10-04 05:45:07 | 長崎の歴史



その後、明治18年(1885年)1月、
中之島(現・日本銀行大阪支店)に邸を新築した。
同年8月には東京で療養生活を送り始め、
そのまま同年9月25日に
東京で逝去したために
この邸で暮らした期間は短いものだった。
五代の棺は
東京・築地から横浜、神戸へと船で、
さらに神戸から大阪まで汽車で運ばれた後、

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五代 友厚-122

2016-10-02 08:45:42 | 長崎の歴史



慶応4年(1868年)から
大阪在勤となった五代は備後町で暮らし始める。
明治2年(1869年)には梶木町
(現・北浜4丁目。ちょうど

日本銀行大阪支店の土佐堀川対岸あたり)
へ移り約半年ほど住んだ。
翌年に備後町に仮居した後は平野町に引っ越し、
明治4年(1871年)12月から西区靭(うつぼ)
北通1丁目(現・大阪科学技術センター)に居宅を構えた。

料亭・加賀伊(かがい)(後の花外楼(かがいろう))
で行われた大阪会議開催前に
盟友・大久保利通が長期間宿泊し、
碁盤を間に五代と向き合って
日々談義したのはこの靭(うつぼ)邸である。

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