『河津伊豆守祐邦』~13
~補足~3
長崎港には、日本側と同じ規模の
イギリスやらロシアやらの軍船がいて、
彼らにつけ入る隙を与えるかもしれぬ。
日本のためを思えば、ここは、幕府奉行として、
さっさと退去するし、西役所も空にして渡す、
ゆえに、その後の治安は、町民代表の代官と、
長崎在住の薩摩や土佐の藩士にゆだねたい、
という申し入れだった。
薩摩と土佐の幹部は最初は疑ったが、
翌朝西役所に赴くと、ほんとに空っぽになっていた。
河津祐邦は、わずかな護衛と共に、
既にイギリス船に乗り込んでいたのである。
すっかり、空っぽになった役所を見つけて、
薩摩と、土佐藩士は、あっけにとられたという。
見事な引き際であった。
ちなみに、九州にはもう一つ天領として
阿蘇に近い内陸の盆地である日田があった。
幕末においては、広瀬淡窓の教えを学ぼうと
若者が集まったことで有名だ。
その日田代官所には、
西国郡代として、窪田鎮勝がいたが、
河津が長崎を脱走した3日後に
やはり脱走して、
日田は周辺の諸藩により接収された。
古美術崎陽
長崎の歴史
~補足~3
長崎港には、日本側と同じ規模の
イギリスやらロシアやらの軍船がいて、
彼らにつけ入る隙を与えるかもしれぬ。
日本のためを思えば、ここは、幕府奉行として、
さっさと退去するし、西役所も空にして渡す、
ゆえに、その後の治安は、町民代表の代官と、
長崎在住の薩摩や土佐の藩士にゆだねたい、
という申し入れだった。
薩摩と土佐の幹部は最初は疑ったが、
翌朝西役所に赴くと、ほんとに空っぽになっていた。
河津祐邦は、わずかな護衛と共に、
既にイギリス船に乗り込んでいたのである。
すっかり、空っぽになった役所を見つけて、
薩摩と、土佐藩士は、あっけにとられたという。
見事な引き際であった。
ちなみに、九州にはもう一つ天領として
阿蘇に近い内陸の盆地である日田があった。
幕末においては、広瀬淡窓の教えを学ぼうと
若者が集まったことで有名だ。
その日田代官所には、
西国郡代として、窪田鎮勝がいたが、
河津が長崎を脱走した3日後に
やはり脱走して、
日田は周辺の諸藩により接収された。
古美術崎陽
長崎の歴史