大隈の下には
伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、
木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳い
大久保利通らを牽制した。
当時、政治談義にふけった大隈の私邸をさして
「築地梁山泊」と称した。
民部省を吸収合併させて
大蔵省を一大官庁とした大隈は
地租改正などの改革に当たるとともに、
殖産興業政策を推進した。
征韓論には反対し、
その後、殖産興業と財政改革という点から、
明治8年(1875)大久保利通と連名で
財政についての意見書を提出したりしている。
西南戦争による支出費用の調達と
その後の財政運営に携わった。
自由民権運動に同情して
国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と
国会の即時開設を説く一方、
開拓使官有物払下げを巡り
かつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、
大隈自身の財政上の失政もあり、
明治14年(1881)参議を免官。
大隈は辞表を提出した。
明治13年(1880)には、
会計検査院創設のための建議をおこなっている。
古美術 崎陽