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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-03-01 11:15:18 | 長崎の歴史
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シーボルトの娘「楠本イネ」~7


補足「大村益次郎」


大村 益次郎(おおむら ますじろう)

文政7年(1824)~明治2年(1869)

幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。


長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、

勝利の立役者となった。

太政官制において軍務を統括した

兵部省における初代の大輔(次官)を務め、

事実上の日本陸軍の創始者、

あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。

幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。

諱は永敏。

位階は贈従三位、後に従二位。

家紋は丸に桔梗。



周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に

村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。

天保13年(1842)防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、

翌年梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓に学び、

弘化3年(1846年)大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。

適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、

その後適塾の塾頭まで進んだ。


嘉永3年(1850)父親に請われて帰郷し、

村医となって村田良庵と名乗る。

翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚した。

だが口数が少なく無愛想で、

村人が診てもらうと身体のしくみ等を

何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので

「大坂で何の勉強したのやら」と

あまり評判のよい医者ではなかったという。


嘉永6年(1853)伊予宇和島藩の要請で出仕。

大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、

安政元年(1854)から翌安政2年(1855)には

長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。

長崎へは二宮敬作が同行し、

敬作から、シーボルトの娘で

産科修行をしていた楠本イネを紹介され蘭学を教える。

イネは後年大村が襲撃された後、

蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、

最期を看取っている。

宇和島では提灯屋の嘉蔵とともに

洋式軍艦の雛形を製造する。

ただし、わずかな差で国産初ではなかった。

(国産第1号は薩摩藩が先だった)

この頃村田蔵六と改名。


文久3年(1863)萩へ帰国。

西洋学兵学教授となり、博習堂での講義を行う。

長州藩ではその風貌から

「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。

このあだ名は周布政之助が付けたとも

高杉晋作が付けたとも言われている。


高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の

創設をはじめとする軍制改革に着手、

大村にその指導を要請する。

桂小五郎(木戸孝允)の推挙により

大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、

藩命により大村益次郎永敏と改名。

明倫館兵学寮総官・教授として

歩・騎・砲兵士官教育を行った。

大村は山口では普門寺を宿舎としていたため、

普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。

大村は西洋兵術書を翻訳したばかりでなく、

実戦に役立つようわかりやすく書き改めた。

さらにその教え方も無駄がなく的確であったという。


大村は戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、

木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び

新政府の幹部となった。

大村は軍制改革の中心を担い、

明治2年(1869)6月には政府の兵制会議で

大久保らと旧征討軍の処理と

中央軍隊の建設方法について論争を展開している。

明治2年(1869)9月4日、

大村は京都三条木屋町上ルの旅館で

刺客に襲われ重傷を負った。

彼の急進開化主義に対する強い反感にあった。

辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され、

数日間の治療を受けた後、

大坂の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、

11月5日容態が悪化し死去した。

享年46。

墓所は山口市鋳銭司にあり、

靖国神社にも合祀されている。

明治21年(1888)孫(養子の嫡男)の大村寛人は

益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。


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